書評集
大江健三郎『万延元年のフットボール』
小説において、その小説がある人物の視点から語られている場合、その小説はその人物に「焦点化(focalization)」されている、という。焦点化する人物を「焦点人物(focalizer)」と言い、焦点人物が物語外にいる場合を「外的焦点化(external focalization)」、物語内にいる場合を「内的焦点化(internal focalization)」と言う。そして、この小説のように焦点人物が固定されている場合を「固定内的焦点化(fixed internal focalization)」と言う。
焦点人物はもちろん主人公である必要もないし、中心人物である必要もない。焦点人物・主人公・中心人物は、必ずしも一致するとは限らない。この小説では根所蜜三郎が主人公であり、また焦点人物でもあるが、様々な行動を起こしてストーリーを牽引する中心人物は、主人公の弟の鷹四である。四国行きを提案するのは鷹四だし、暴動を引き起こすのも鷹四だし、最後に自殺するのも鷹四である。
内容を言うと、この小説は、ある誇張されたキャラクターの悲劇である。単に内面の悲劇を表したのではなく、行動によって外面化された性格の、外面的な悲劇である。鷹四はきわめて行動的で、また暴力的であり、妹を犯すなどの禁忌をも犯してしまう軽率さがある。一方で、彼は、自分のそのような傾向を罰しようとする。彼は安保闘争に加わるが、改悛して償いのための劇の公演でアメリカを回る。妹と肉体関係を持ち、それがきっかけで妹を自殺させてしまうが、その事実を蜜三郎に打ち明けた後、自殺してしまう。彼は行動と自戒の間で常に引き裂かれている。大江は、そのような性格のもたらす悲劇を描いたのだ、と解するのが素直であろう。
この小説を読んで感じたのは、キャラクターというもののストーリーを牽引する力である。行動が少なく、もっぱら内面ばかりを綴った小説というものも考えられるが、その場合の内面の動きも、その人物のキャラクターに依存しているのである。小説が人間の心や行動を描くものだとするならば、その描く行為によって、同時にその人間のキャラクターも描かれているわけである。
最後にこの小説の文学的な水準の高さであるが、凡庸さを感じさせない新鮮な描写が多く、また、登場人物の思索・発言も高い知性・精神性を感じさせるものであった。感情の機微も丁寧に描かれていて感慨深かった。読んでいてまったく飽きず、心地よい刺激に満ちた魅力的な長編だった。