書評集
田山花袋「蒲団」
この小説は、二重の意味で通常でない。二重の意味で世間の規範を破っている。そして、そのような規範からの逸脱が、どちらもユーモアを生み出す種類であるのがこの小説を娯楽作品たらしめているのである。まず、主人公は女弟子への恋に翻弄される。この時点で主人公の状態は通常でない。女弟子に恋しさらに翻弄されるというのは、世間の規範に照らし認めがたいことで、また恥ずべきことである。例えば人を殺すのだったらそれは恥ずべきことというよりはむしろ悔いるべきことである。悔いるべき規範逸脱はユーモアをもたらさないが、恥ずべき規範逸脱はユーモアをもたらす。悔いるべき規範逸脱は深刻であるが人の羞恥心を刺激しない。それに対して、恋愛に関する規範逸脱は人に羞恥心を抱かせ、それゆえそのようなものに直面した読者は笑わずにはいられないのである。羞恥はきわめて笑いと結びつきやすく、それゆえ羞恥すべき事態に直面した読者はそこから大きな娯楽性を感じることができる。
さらに、主人公はそのような恥ずべき事態を、余すことなく自らの心情で吐露している。これがもし、客観的な描写であったら、同じような事態でもそれほど娯楽性はまとわなかったはずだ。だが、羞恥すべき事態を生み出している当の本人が、恥も臆面もなく自らの内面をさらけ出していること、ここに第二の規範逸脱がある。常識的には、恥ずべきことは人に話さないものである。それを堂々と白状するのだから、読み手としては笑わないではいられない。ここには、例えば個人のブログなどでなんてこともないことが吐露されているのを見た時に、何とはなしに微笑するのと同じメカニズムが働いている。自分のプライベートなことは基本隠すのが世間の規範である。それが素直に洩らされているのを見ると、ついつい笑えてしまうものなのだ。
さて、このようにして日本の私小説は、恥ずべき自らの在り方を臆面もなく吐露するという形態で出発した。だが、これは文学による救済の一つの典型であると言える。人に言えないことでも作品の形にすれば言えてしまう。特に恥ずかしいことは本来だれにも言えないはずなのだが、それが作品という体裁をとることによって、白状することが許容されてしまう。そのような作品の魔術による救済、これが第一の救済である。そしてさらには、読者によって大いに笑ってもらうこと、これが第二の救済である。時に人は、共感や同情よりも、温かい微笑を相手に求めるものである。自分の窮状を温かく笑ってもらえるところに救いは生じるのであるし、そのような意味での救いを生み出しているのも私小説の特徴であろう。