書評集
ヘッセ『クヌルプ』
可能性は美しい。現実性は苦々しい。この小説の主人公であるクヌルプは、成績優等であったにもかかわらず、好きになった少女との恋を成就させるために学校をやめたが、彼女に裏切られることでそれ以降放浪の生活を始める。クヌルプは定職につかない。そしてクヌルプは孤独だ。このようにして、彼の人生は二重に可能的なのである。自分の職を定めず可能的に保つこと、自分の人間関係を定めず可能的に保つこと。彼の人生が美しいのは、彼の人生が可能的であり、現実との格闘で生じる面倒事や挫折をきれいにスルーしていることに由来する。彼は少年時代、ひとつの恋に現実的に夢中になって手ひどく挫折した。それ以来、現実的に自らの在り方を規定することに対して臆病になってしまったのだ。だが、それゆえに、彼の人生はいつまでも夢に満ちていて、限りなく美しい。
そして、彼は生涯で一度の大挫折をその後の行為で薄めることをしなかった。行為の積み重ね、それも意味のある結果のある行為の積み重ねは、それぞれに栄光を生み出し、それ以前の行為の存在感を薄めてしまう。だが彼は、大挫折ののちに意味のある行為を重ねていない。だからこそ、彼の失恋は美しいままに、他の人生の諸事件にかき消されないままに、保たれているのである。
このように、可能性に包まれて、また、色あせない過去の大事件によって傷つけられたクヌルプは、いつまでも美しいまま居続けることができる。そして、彼の死もまた神によって正当化され、彼の人生は何もかも美しかったということになる。だが、それは一つの種類の美しさにすぎないだろう。人生にはもっと違った種類の美しさがあるはずだ。それは例えば、行為に行為を重ね、現実との格闘を重ね、自らを狭く規定しながらも様々な生産的な成果を上げ、大往生するという生き方だ。極めて現実的な生き方もまた私は美しいと思う。クヌルプの生き方は、人生の一つの美を提示することによって、それと相反するような人生の美にまで思いを至らしめてくれていると私は考えるのだがどうだろうか。