書評集
ヘッセ『シッダールタ』
人間の思想は変化する。「思想」とは呼べない、「思想」以上の「知恵」「悟り」も変化する。この小説で主人公は、初めは修行者として既存の教理を習得するが、そこから俗世間のものとしての煩悩に囚われ、さらに最終的には煩悩から解脱する。このような思想や知恵の変化は不連続である。そこには必ず飛躍がある。だが、小説の機能は飛躍をなるべく連続化することにあるわけであり、この小説でも、主人公の人生が異なる思想・知恵の間を連続的につなぐ役割を果たしている。主人公は商人として生きることによって、俗世間の煩悩に囚われる。一度煩悩に囚われたからこそそこからの解脱の意味を理解する。息子を愛したからこそ、何物をも愛する境地に達することができた。そのように、小説における人生の記述は、主人公の精神の遍歴、思想・知恵の飛躍を連続的につなごうとするのである。
だが、小説という機能体が連続化を図れば図るほど、却って連続化できないところが目についてこないだろうか。そのような経験を経たからこのような思想が生じた、ということは確実には言えない。そこには何かしらの不確実性、不連続性が潜んでいる。さらには、思想同士をつなぐ人生自体が不連続である。そもそも、思想同士を連続化する以前に人生自体が不連続なのだ。つまり、小説という機能体は、人間の遍歴を連続化しようとして絶えず失敗し続けるだけに過ぎない。
ところが、このようにして、連続化しようとして絶えず失敗し続けるところに小説の感銘力の源泉はあるのだ。何もかも破綻がないように連続的に説明されたのではそこに生じる感興は少ない。なぜならそこにドラマはないからだ。連続化しようとして却って暴かれる不連続性にこそ、人生のドラマは宿るのであり、いわば小説はその機能を完全に果しえないことによって芸術として成功していると言えよう。