書評集
国木田独歩「武蔵野」
この小説は、テクストについてのテクストである。つまり、独歩は、「読者」として「武蔵野」というテクストを読んでおり、武蔵野という開かれたテクストから得られた快楽を小説/テクストとしてしたためているのである。武蔵野はどういうタイプのテクストかというと、一番は映画のテクストに近い。それは、独歩がその中にさまよいこみ、運動し開拓していく映像と感情が展開される映画のテクストであろう。独歩が武蔵野を歩いて行ったときに運動的にみた様々な情景――もちろん静止画も含むが――が彼の声とともに綴られるのだから、武蔵野は映画のテクストに近い。
武蔵野という映画のテクストの鑑賞者であった独歩は、そこからえた感慨・感動・詩興をこの小説/テクストに編んでいる。すると、それをさらに読んでいる我々は、まずこの小説というテクストを読むと同時に、その背後にある武蔵野というテクストも間接的に読むことになる。実際、この小説の文の作りは、武蔵野の自然を興深く描くために、微に入り細にわたり入り組んでいる。我々はまず、この小説の文の作り・構造から、武蔵野自体の構造に思い至る。武蔵野自体も機微に満ち入り組んだ構造をしていることが分かる。さらに、武蔵野には、この小説に描かれたのと同質な映像が、この小説に描かれていない部分にも無数にあるんだろうな、ということに思い至る。いわば独歩は武蔵野をサンプリングしているのである。
ところで、我々は、独歩がサンプリングしてこの小説に仕立て上げたところの武蔵野を、さらにサンプリングして読むことになる。独歩の記述は面白いところも退屈なところもあり、我々としては、それを読むに当たり非常にムラのある心理で読んでいる。ここに存在する二重のムラ、二重のサンプリングは、何か、テクストというものが、どんどん言及されていくにつれ、様々に変容していく動的なものであることを示してはいないだろうか。武蔵野は一つのテクストだったが、それを独歩が鑑賞するとき、動的に変形させられる。さらに、独歩の小説を読む我々は、それをさらに変形して受容する。テクストのオリジナリティなどを論じることよりも、テクストがいかに受容の連鎖の中で変容し運動していくかのほうが重要であることが分かる。