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書評集

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横光利一「春は馬車に乗って」


 「メロドラマ」という規定は、しばしば否定的に用いられる。特に映画や小説において、メロドラマとは安易に読者の安っぽい感傷に訴えるものであり、芸術的感興ではない俗っぽい感興を生み出すものと思われがちだ。芸術は確かに、鑑賞者の心を何らかの意味で動かさなければいけない。ところが、メロドラマは、鑑賞者を感動させるのに、陳腐で工夫もない、ありふれた特効薬のようなものを使用している、そう思われがちだ。
 だが本当にそうだろうか。この小説は、確かに、主人公の妻の死を描いたもので、しかも妻が死ぬ間際に、夫が妻に花束を差し出し、「春が馬車に乗ってやって来た」みたいなことを言うのである。この、愛するものの死と、死んでいくものを美しい贈り物と言葉で必死に励ますお涙ちょうだいのメロドラマには、辟易してしまう読者もいるかもしれない。
 しかし、メロドラマというのは、そんなに安っぽく読者の感傷に訴えるものではない。むしろ、メロドラマがいかなる構造を備えているか、その構造において感傷的なシーンはどのような役割を果たしているか、それを考えるべきではないか。
 小説は、通時的な物語というよりは、通時的かつ共時的な網目状の構造体だと思う。小説を読むとき、読者は今読んでいるところだけを読んでいるわけではない。そこには常に、その手前までに書かれてきた出来事が複雑に絡まった織物が同時存在しているわけであり、小説はいつも、読まれている部分と既に読まれてしまった部分の共時的併存という形で読者の前に現れる。そして、今読まれている部分は、常に既に読まれてしまった部分を参照する行為とともに読まれているのである。
 そこで、メロドラマの感傷的な部分の機能について考えてみよう。感傷的な部分を読む読者は、感情の高まりと同時に一種の混乱に陥る。読者は非常に脆くなる。それまで、小説と距離をとっていた読者も、感傷的な部分においては、小説の中に強く没入してしまう。メロドラマはこのようにして、読者が小説の内側に深く陥入する契機を作り出すのだ。
 そのように高まった感情を持ち小説へ没入するときでも、読者は既に読まれてしまった部分を参照している。すると、感傷的な部分を入り口として、そこまでの蓄積に一気に光が照らされ、読者は小説全体に一気に没入する体験をすることができる。メロドラマとは、そのように、安易な感傷製造機なのではなく、感傷的な部分がそこまでに記されてきた部分とネットワークを作ることで、感傷的な部分を入り口として小説全体を強く体験させるすぐれて機能的な装置なのである。

作品名:書評集 作家名:Beamte