書評集
H.ジェイムズ『デイジー・ミラー』
この小説で、主人公が思いを寄せる美しい女性であるデイジーは、ヨーロッパにやってきながらアメリカ流の奔放な人付き合いをし、ヨーロッパの社交界から顰蹙を買い、挙句の果てに死んでしまう。主人公はアメリカ人でありながらヨーロッパに長く居て、ヨーロッパの風習を身につけている。主人公は、デイジーの振る舞い、特に男友達との奔放な付き合いについて、「いやしい」のか「無邪気」なのか決めかねている。だが、この小説が「心理小説」と言われる理由は、人間の心理を、どこか言葉ではとらえきれないものとして描いている点ではないだろうか。
人間は言葉によって世界を分節化する。「言分け」と呼ばれるものである。その前段階として、人間は身体によって世界を分節化している。「身分け」と呼ばれるものである。言葉によって世界を区切る以前に、人間は身体と世界との対応関係を様々に結んでいる。だが、この小説は、「言分け」と「身分け」の中間として、「心分け」という分節化があるのではないか、ということに思い至らせられる。つまり、言語的と言えるほど明確に区切られたわけでもないが、かといって身体的と言えるほど触覚的なものでもない。感情や意志や衝動が、うまく言葉にできない次元で、かといって身体ほど物理的ではない次元で、世界を分節化していく。
人は対象と近づけば近づくほど、対象を言語的に把握するのが困難になってくる。主人公はデイジーをよく知っている。よく知っているからこそ、その多様なありようを、簡単に「いやしい」という言葉に回収できないのである。その点、大陸の社交界の人々は、デイジーをよく知らない。デイジーから遠いところにいるので、彼女を簡単に「いやしい」と言語化できる。だが、そこに心理小説の出現する余地はない。心理小説は、対象が容易に言語化できないほど近くなったときの、心と対象との関係を描いていくのである。
主人公は、デイジーの振る舞いについて、心の次元において、ある認識とある感情を抱いている。つまり、デイジーを「心分け」している。だが、その認識と感情は、「いやしい」の枠からも溢れ、「無邪気」の枠からも溢れるのである。そのように、言葉から溢れる心理を、それでも言葉を用いて示唆していること。それがこの小説の優れた点であろう。