書評集
ゴーゴリ「外套」
そして彼は何を見たか。滑稽と悲惨−−彼は滑稽と悲惨とを見たのである。
トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』より。クレーゲルが成人して世界の内側の究極の在り方に気づいたとき、そこには滑稽と悲惨があった。ところで、ゴーゴリが描こうとしていた、あるいは描かずにはいられなかったのは、まさにその滑稽と悲惨なのであった。そして、ゴーゴリにとって滑稽と悲惨は、特に秘されたものでも深刻なものでもなく、人間の生きる表層にいくらでも転がっているものだった。
クレーゲルにとって世界の深層にあったものが、ゴーゴリにとっては世界の表層にある。これはたぶんクレーゲルとゴーゴリとの世界に対する耐性の差異にもとづく。クレーゲルは繊細であって世界の美しさを信じたい。世界の真相を知って自分が傷つくことに耐えられない。そして世界の真相にいつまでも傷つき続ける。それに対してゴーゴリは同じだけの繊細さを備えながらも、世界の真相をそのまま吐き出すことで絶えず自らのわだかまりを浄化するのだ。世界の真相に傷つきながらもそれを劇化し表現することで、傷を浅いままで済ませるのだ。ゴーゴリは世界の深層とも表層ともうまくつきあえる人間だった。深層からくみ上げた滑稽や悲惨を表層に流すことで自分は傷つかない。世界に対する対処の仕方を知っていた。ユーモアとはまさに、滑稽や悲惨に満ちた世界というものに対していかに自分が傷つかずに済むかという技術である。そしてゴーゴリはこの技術に長けていた。
滑稽さというものは、何かとの対照で生じるものである。権威に対する卑小さ、賢さに対する愚かさ、怒りに対する恐怖、などなど。ゴーゴリは、同一の人間が滑稽であると同時に威厳を備えたものでもあることを描くのを忘れない。つまり、ゴーゴリのユーモアは偏ったものではなく、不純なものである。そのことがある意味彼のユーモアを純粋にしている。というのも、何もかも面白おかしく書くことは、却って書き手を傷つけるからだ。尊敬すべきことまでを笑い飛ばすのは逆に苦痛である。世界に対する対処法としてのユーモアを純粋に追求するとき、威厳は威厳としてそのまま描かれなければならない。それを無理に滑稽にすることは逆に書き手にとってストレスなのだ。
かくして、アカーキイは初めみんなから嘲笑される滑稽な人物であり、特に「重要な人物」にどやされておずおず退却する卑小な人物として描かれる。一方で、幽霊になってからのアカーキイは逆に威厳をもち、今度は「重要な人物」が逆にどやされて滑稽に退却するようになるのだ。このアカーキイと「重要な人物」の対照に、端的にユーモアの発生原理が見てとれる。威厳に脅かされる卑小な存在としての人間、その真実に傷つかないためにそれを表層化し、笑いに変える。そして、威厳は威厳のまま、むしろ人間存在の一側面としてそれを維持し、逆にそれを表層から深層へと移行させ、人間を尊重することを忘れない。世界の悲惨と滑稽に傷つかず、そして世界が人間を尊重するならそれをそのまま描き無駄に滑稽化しない、それがゴーゴリのユーモアである。