書評集
中上健次「黄金比の朝」
人間が、たくさんの素敵な「あなた」と触れ合い、その自分よりも成熟した「あなた」たちから人生の知恵を学び、順当に成長していく、という穏健なビルドゥンクスロマンは、現実の人生の一面を切り取っているに過ぎない。そもそも、そのような素敵で肯定的な成長を遂げるためには、人間はある程度成熟していなければならない。では、その、穏健な成長を遂げる以前の成熟はどのようになされるか。それは、今述べた成長とは正反対の成長、つまり、他人を否定し、他人の欠点から学び、自分はその欠点を備えないようにしよう、という成長によって達成されるのだ。
この作品で、主人公は、母が汚れた仕事をしていることや、兄が観念的な革命ばかり唱えていることや、友人が真面目に働かないことにことごとく反感を抱き、自分はそうならないようにと強く自分を律している。年齢的にも18から19あたりで、学校や家庭から与えられた規範を無自覚に受け入れることへの反動がまだ残っている時期だ。特に、血縁で結びついている母や兄に対しては、その結びつきの強さ故に、反感もまた強い。主人公はまだ他者から肯定的に物事を学ぶだけの、他者に対する愛情や包容力に欠けている。家庭や学校に対する懐疑をようやく得て、その刃先がまだ鋭いところで肉親や友人に斬りつけているのだ。主人公は大人になることで精いっぱいで、その余裕のなさが、他者の肯定よりも他者の否定へと向かわせているのだ。
変に思われるかもしれないが、人から何かを受け取るためには、それ以前に人に対して何かを与えなければならない。まず、人を許すこと、人に対して愛情を注ぐこと、そのように少し自らの自我に余裕を持たせ他者の侵入を許すことによって、初めて「あなた」から肯定的に教訓を得ることができるようになるのである。自我が一人称の私でいっぱいであるとき、「あなた」はそこから排除され否定されるものとしてしか現れない。「あなた」を否定することによって自らを律していくうちに、その否定がいつしか、「自我で充満しているあなた」の否定、つまり「私」の否定に行きつく。そのとき、余裕がなく他者を否定してばかりいる自分を否定し、他者の肯定と「私」の無駄な自尊心の否定が健全になされる。この小説は、人間がまだその段階に達していないところにおける、自尊心と他者との相克を鮮やかに描いている。