書評集
楊逸『時が滲む朝』
三人称の歴史、あるいは公的な歴史、素材としての歴史、そういうものは、あらゆる歴史体験の根本にあるように思われながら、実際は存在しないといってよい。存在するのは、物語としての歴史である。歴史は個々人の体験として具体化され、その個々人の告白から共通項が物語られることによって成立する。だから、歴史の基底にあるのは個々人の体験であり、それが歴史の源泉であり、三人称の公的な歴史はそこから抽象されたものに過ぎない。
この小説は、天安門事件やその後の香港返還などの中国で起きた政治的事件について、あくまで個人の体験として告白している。もちろんそれは虚構ではあるのだが、歴史の基底としての個人の政治的体験を、個人の意志や感情などの内面に即して書いている。だから、ここにあるのは、三人称の歴史・公的な歴史においては抹殺された、しかしながら三人称の公的な歴史の基底となっている個人の歴史的体験である。この小説は、歴史というものの意味を問いかける。公的な歴史ではなく、その基底となった個人の歴史こそが本物の歴史である。
と同時に、歴史のもつ大きな力を個人の劇の中に宿らせることで、小説としての感銘力を上手に高めている。歴史は多くの人間を巻き込むものであり、それについて対策を練ったり、そこから実践的な知恵を学ぶことのできるものである。三人称の公的な歴史には感銘力がないが、それが個人の次元で具体化されたとき、そこに感銘力が生まれる。歴史は、それによって動かされた無数の声なき民の声によってはじめて生き生きと再体験されるのである。
だから、この小説は、歴史の基底にある個人的な告白を描くことで歴史の根源を暴き、それと同時に歴史の持つ大きな動力を個人の劇の次元に卸すことで小説としての感銘力を増すことに成功しているのである。