書評集
太宰治「二十世紀旗手」
この小説を読んで感じることは、至る所に倫理的なモチーフがしみ込んでいることである。倫理は、他者からの評価でもあるし、自己評価でもあるし、他者からの評価を自己評価へと内面化していくことでもあるし、他者からの評価に自己評価を拮抗させることでもあるし、他者からの評価を先取りして自己を防衛することでもある。
例えば、自分が生まれた時から罪を背負っている、という考え方は、まず自己評価であるが、それは他人からの評価に基づいて形成されたのかもしれないし、またあらかじめ自分をそうみなすことでそれ以上の他者の追撃を抑制して自己防衛しているのかもしれない。
そして、興味深いことに、太宰の倫理性は、恋愛や思想にまでしみ込んでいる。恋愛は感情でなされるもの、思想は論理でなされるものと考えるのが通年だろうが、太宰は恋愛も思想も倫理によって行っているように見える。
萱野さんとの恋愛も、単に感情だけではなく、倫理的なやり取り、つまり、相手から非難されたり、相手の罪をかばったり、金の貸し借りに罪悪感を感じたり、そのような仕方でなされる。そして、太宰は、読者の目を気にかけて、彼女との恋愛についての筋書きさえ変えてしまおうとするのだ。
また、自らを蝙蝠とみなす思想の展開においても、裏切りやら義理の悪さなどという倫理的な思考が強く出ていて、そもそも自らの「蝙蝠」という規定の仕方が倫理的色彩が強い。
ここまで倫理的に自覚的であった太宰であったが、その倫理感覚をもとに成人や君子の類になれなかったのはどうしてか。そこまで「ダメ」な自分だとわかっていたのなら、それを克服し、「ダメ」でない自分へと自己を変貌させることはできなかったのだろうか。だがそこにあるのは彼なりの美学でありストイシズムであったのだと思う。つまり、それだけの倫理感覚を持ちながらも、あえて人格者にならず、人間の罪深さを身をもって体現することで、読む者に倫理的な自覚を促すということ。太宰はその意味で極めて周到に自らの美学を実現したといえよう。