書評集
清岡卓行「アカシアの大連」
この小説は、小説というよりも、主人公が大連について抱いている心象の断片の寄せ集め、といった体である。まず、明確なプロットがない。事実を描写によってどんどん連続的に積み重ねていくのではなく、清岡にとって特に意味深い事実を不連続にピックアップして、それを繊細に感覚し、あるいはそれに批評を加える、それを寄せ集めたものに過ぎない。だからこの小説にはクライマックスもないし、始まりも終わりもない。
通常の小説では、事実についての感覚や批評は保留される。感覚や批評はあるとしても、それが「解答」であるかのような面持ちはせずに、常に問いかけとして答えは留保される。だが、清岡は、一つ一つの事実についてこと細かに「解答」を与えていくのである。感覚や批評の漠然性、人生についての登場人物のとらえ方の漠然性、多くの小説はそれを前提に、人生についての答えを留保して、人生を問いのまま存置することで成立しているが、この小説は逆に、人生についての解答を明確に示すことで存立している。
つまり、この小説は事実の積み重ねによる小説の奥行きが乏しい分、それを補うものとして、感覚や批評でもって小説の奥行きを生み出しているのである。だが、人生について明確に解答を出しているかのように思わせながら、これほど「問い」に満ちている小説も少ないのではないかと思わせる。つまり、この小説は、通常の小説が問いとして残している領域まで解説してしまうので、読者はさらに奥深い問いに直面させられるのである。読者は、清岡が踏み込んだ人生の深淵の先にまで行かなければならなくなってしまう。いわば、通常の小説の場合は読者が簡単に答えを出せたような部分について、清岡はあらかじめ答えを用意してしまうため、読者はその答えをさらに問いとしてとらえなおさなければならなくなってしまうのだ。
このようにして、この小説は、プロットの事実性が乏しいにもかかわらずかなり奥深いものとなっている。それは、小説というよりは詩や批評のもたらす奥深さであり、それが小説の形式をとることによって、小説の奥深さからさらに詩や批評の奥深さが加味されたものとなっている。