書評集
阿部和重「グランド・フィナーレ」
人間は自意識があることによって他の動物から区別されるとよく言われる。自意識は自己を主体と対象に二重化し、自己を規定・規制する働きを担うものである。人間は自意識によって自己を認識し、そのような自己でよいのかどうかを判断し、適切な行動を導いていくのである。
ところで、この小説の主人公にはどうもこの自意識の働きがあまり感じられないのだ。この小説を読んだときに奇妙に感じるのは、他者が主人公を「児童ポルノに携わった最低の人間」などと積極的に規定していくのに対し、主人公はどうも自己を適切に規定できていないし、他者による規定も十分承認できていない点である。だから、他者による規定は極めて現実的であるのに、主人公から見たその規定はあたかも幻想であるかのような強度しかもたない。この小説を読んだときに感じる気味の悪さはその辺に由来する。
主人公は確かに思考もするし意志もするし行動もする。だが、自意識が弱い。自らが他者により規定され、自己によってもある程度規定されているのだが、その規定性をなぜか受け入れられない。これは、盲目の人間が光を感じないように、規定性というものを受容する器官がそもそも欠けているかのような不気味さである。
これはおかしな話である。反省する自己、自意識の強固な自己こそが、実存哲学によって強く認識された人間のあり方だったはずだ。ところが、現代の自己は、反省や自意識からどこかすり抜けてしまう、反省や自意識から本能的に逃げてしまう、どうやらその辺に本質がありそうだ。サルトル流の、人間は無規定であるが故に自ら規定していかなければならない、的な発想を逆転して、人間はあらかじめ規定されているがそこから盲目的に逃げて行ってもいい、そのような時代性が到来したかのようだ。