書評集
中原昌也『あらゆる場所に花束が……』
スリルとは、物語からの疎外によって生み出されるのではないだろうか。推理小説は、出来事の背後にある真実の物語から読者を疎外する。そしてラストになって読者は真実の物語を知ることができるのである。物語が存在しながらそこから疎外されてあるという感覚、これがスリルではないだろうか。
物語というものは、語り手の数だけ存在する。同じ出来事を語る場合でも人によって語り方が違う。この小説は、小林という実業家をめぐって、あるいはそこから離れながらも、常に何らかの共通の出来事によって連結されている断片の積み重ねである。そして、それらの断片は、異なった語り手によって語られるために、断片から断片へと飛躍するときに、読者はそれまで読んでいた物語から疎外されるのである。断片から断片への飛躍によって、異なったパースペクティブ、異なった物語が始まるため、それまでの物語から読み手は疎外され、そこにスリルが生じる。そして、異なった物語も読み進めていけばなじんでくるので、あたかも推理小説の種明かしがあったかのように、読者は新たな物語と親和していくのである。
このように、異なった物語の間を飛び跳ねていくスリル、それによって、逆に一種の統一が生まれてくる。惑星が恒星の周りを大きな距離を隔てて回っているにしても、その周回軌道は厳密な法則にしたがっている。それと同じように、異なったパースペクティブは、それぞれが一つの主題や出来事を志向し、遠心的に統一されていると言えよう。この小説の主題は、憎しみや攻撃による世界からの疎外、物語からの疎外であり、まさに技法そのものであるのだが、その主題によってそれぞれのパースペクティブが緩やかに統合されているのだ。