だうん そのいち
俺の嫁は、些か人生を投げているので、自分のことには興味がない。たとえば、食事とか入浴とか睡眠とか、普通は、無意識にやることすら無視できてしまうからだ。発熱して食事の準備すらできなかったから、昨日は何も食べなかったはずだ。今日も、俺のお粥を、ちょっと食べただけで、仕事に出てしまった。
・・・・あいつ、昔よりひどなってないか?・・・・・・
昔は、一応、一日一食ぐらいは食べていたはずだ。それすら、どうでもよくなっているとしたら、人生投げ遣り度数が確実にアップしている。
熱いシャワーを浴びてから、水を飲んで、冷蔵庫の中を覗いた。買い物していないから野菜がない。冷凍している常備菜はあるが、それだけでは心もとないので買い物に出ようかと、普段着に着替えて財布を手にした。
・・・・うーん、俺も食われへんから、高野豆腐とか、エンドウの卵とじとか、そういうのでええかな・・・・・
玄関に向かったら、そこで、思わず立ち止まった。玄関の扉に、折込みチラシの裏全面に書かれた、「出たら、ぶっ殺す」 の文字が目に入ったからだ。
「ぶっっ、ははははー・・・・・あーいてぇーーーー・・・・笑かすなよ・・・・・」
それも、急いでいたのかガムテープで貼り付けてある。心配してのことらしいが、あまりにも乱暴な殺し文句に笑ってしまった。
・・・・そういや、買い物してくるとか言うてたな・・・・・・
おぼろげな俺の嫁の言葉を思い出した。たぶん、何か買ってくるのだろう。それなら、待っているとするか、と、俺は居間へ踵を返した。
動くと熱が上がるらしく、こたつで、大人しく横になった。ウィークデーの午後なんてものは、碌なテレビもないからつけていない。
のんびりと外の音を聞いている。もしかしなくても、俺が介護必要な状態になったら、あいつのほうが先にくたばるだろうと思った。自分に対する世話を一切しない俺の嫁は、俺のことしかしないだろう。どんどん顔色が悪くなってやつれていく俺の嫁を、黙って見ていなければならないとしたら、俺は、かなり辛い。「食事をしろ」、と、言っても、「食べた」と言われ、「横になれ」 と言っても、「今、忙しい」 と、怒鳴られたら笑うに笑えない。
手を離すつもりはない。
けれど、人生何があるか、先のことはわからない。
・・・・・やっぱ、俺が動けなくなったら、あいつを道連れにするほうが楽やろうな・・・・
たまに、ふと思うことだ。俺が世話をしなくなれば、完全に人生を投げてしまうだろうから、それなら、そうするほうがいいのかな? と、考えてしまう。
・・・・いや、まあ、俺が看取ったったら、それで済むことやけどなあー・・・・・・
健康であり続ける必要がある。お互いに、健康であれば、こんなことを考えなくていい。
・・・・帰ってきたら、風呂に入れって言わなあかんな・・・せやせや・・・・・
散らばっている折込みチラシを集めて、俺もペンを手にした。「風呂入れ、カビるぞ。」 とか「餓死する前にメシを食え。」 とか 「毎日、パンツぐらい履き代えろ。」 とか、思いつく限りのことを書きなぐって、こたつの天板にガムテで貼り付けておいた。
使えねぇーと、文句を吐きつつ、タクシーで家に帰ったのは、十時を回っていた。無理矢理に夕刻に終わらせようと思っていたら、部下は、ちっとも仕事をしていないことが判明して雷を落とすことから始まり、ついでに、その部下たちに泣かれて時間がかかり、余計に仕事が遅れた。泣いて済むのは、学生だけだ、と、再度、怒鳴りつけて、やるべきことをやらせて、自分の持分も処理していたら、そんな時間だ。結局、買い物は、会社の側のコンビニで買うので手一杯だった。
・・・・・とりあえず、これを食わせて、ほんで、薬飲ませたらええか・・・・・・
手にしたコンビニの惣菜と冷凍うどんを覗きこんで階段を上がる。汗をかいているだろうから着替えも必要だろうし、シーツも代えなければならないだろう。いろんなことを考えて、部屋の鍵を開けた。
エアコンが効いていて室内は暖かい。居間へ入ると、こたつに、同居人が沈没していた。机の上には、作り置きしたお粥と梅干と、飲んだと思われる薬の袋がある。
・・・・せやんなあー腹は減るもんなー・・・・
間に合わなくて申し訳ないと思ったが、今、ここで眠っているなら、先にベッドのシーツを取り替えようと、荷物を置いて立ち上がった。
「やっぱりか? なんで大人しいしてられんのやっっ、あのあほはっっ。」
部屋に入って開口一番叫んだ。きっちりとベッドメイクされているベッドから察するに、シーツを取り替えたらしい。もしや、と、自分の部屋も覗いたら、同じように綺麗になっていた。暗くなってはいるが、ベランダには白いものがひらひらとしているのも判明した。
つまり、病人は自らで着替えて、さらに、シーツも取り替えて、ご丁寧にも、自分の分もやってくれたらしい。病気の時ぐらい、そういうことはしなければいいのに、と、俺はがっくりと肩を落とした。
水分と栄養は補給しなければ、と、ゼリー飲料とポカリを袋から取り出した。こたつの上を片付けておこうとしたら、下から、「パンツぐらい履き換えろ」 とか「風呂に入れ、かびる」 とか「メシを食え、痩せたら抱き心地が悪い」 とか、もう、それは、どんな悪口なんや? というような文字が書かれたチラシの裏が現れた。
「おっおまえなー、なんじゃっっ、これはっっ。」
極めつけが、「いくら俺が物好きでも、すえた匂いのする嫁は舐められへん」 という文字だ。
「舐めんんでええわいっっ。」
ガムテで止められた、それらを、びりびりと引き剥がし、空っぽの鍋に投げ込んで台所へ運んだ。騒々しい物音で、病人も目を覚ましたのか、もそもそと起きて、「おうー」 と、声を上げた。
「花月、とりあえず、これ。マルチビタミンとブドウ糖を摂れ。」
「・・うー・・・おま・・・めし・・くえ・・・」
「いや、俺はええから。すまんな、仕事が長引いてしもて・・・・ていうか、洗濯なんかすんなよっっ。こういう時は、嫁の俺がするもんや。」
「・・・ひまで・・のーー・・・・ん?・・・うどんか? ・・・」
朝よりは、幾分かマシな顔色で声も出るようになっていた。食卓のコンビニ袋を目ざとく見つけて、花月は立ち上がった。
「ああ、食うか? 」
「・・・いや・・・おまえ・・・・」
「俺はええから、それを吸え。ほんで、ちゃっちゃと寝ろ。」
「あー? おまえ・・・食うまでは・・・寝られん・・・・風呂も・・・」
「あほやろ? おまえ。俺のことはええ。」
「あかん。」
花月が、物凄く真剣な顔で、俺を叱る。俺は、かなり壊れているので、自分のことは考えない。いつもは、花月が、俺の世話をする。そうしないと、俺は何もしないからだ。だが、こういう時ぐらい、自分の身体のことだけ考えていて欲しいとは思う。俺は成人しているし、至極健康ではあるのだから、数日ぐらい放置しても壊れたりはしない。
「二、三日ぐらいええ。」
「あかん。」