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貴方が望むなら[前編]

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先生。これほど意味深な単語もあるまい。言葉にすれば簡単だ。先に生きる人。先達、そういう意味では、もちろんあるものの、通常においてその単語は何かを教える人、知識を与える人という意味になる。
店の常連たちはからかい混じりでヤワのことを先生様などと呼んでいたが(それ以外の形容を思いつかなかったという言葉は言わぬが華、言ったとたんに殴られるのはノウェで証明されていた)、まさか本当に先生だとは、それもしかも、巷で有名に過ぎるこの青年の先生だったとは。得体が知れないを通り越している。
「…………なぁ」
笑顔でヤワを見つめる青年と、むっつりとそれを完全無視しようとしているヤワの間にいたノウェはゆっくりと口を開く。とたんに二人の視線が寄せられて、びくつきはしたものの。
「お前さんたち、どういう関係?」
言葉通りに先生と生徒とか言うなよ、おらぁ腰抜かすぞ。
そう綴った声は、青年の微笑に打ちのめされた。
「先生は、先生です。俺に文武の全てを教えてくださいました」
「不本意にな」
「はい、でも感謝しています」
マジかいっ、そう口パクで呟いたノウェは、じぃと青年を見つめたあと、ヤワに目を移した。顔面強打はいつものことなのかその暴力を怖れているようなそぶりはない。
「ヤワよぅ」
「なんだ」
「苦労してたんだなぁ、ごめんなぁ、お前のこと頭のいいお坊ちゃん育ちがものめずらしさにこの界隈に入り込んだとか思っていちゃもんつけてよぅ」
「随分昔のことを掘り出してきたものだが、今でもそう思ってたのか?」
「んや、頭と育ちがいいのはなんか分かるんだ、けどよ」
お前さんものめずらしさっていうより、呼吸がしやすいから入り浸ってる口だろ。
けろりと言い切った飲んだくれに、ヤワは心なしか口元を和らげた。それで、正解だ。
別に隠していることはあまりない、〈教授〉であるという点から派生する全て以外は、とくに隠していない。良いところ出というわけではないし、本当に頭脳労働者に見えるのは心外なだけだ。
それを見抜く者がこの界隈には結構居て、気を抜くことができた。それだけではあるものの、何度も足を運ぶには十分な理由だった。
正真正銘、お坊ちゃん育ちになる予定だった目の前の元教え子には理解できないかもしれないが。
「でだ、旦那。ヤワって何者?」
「…ノウェ」
「いやこの際きぱっとはっきりしてもらったほうが俺とか俺とか俺とかの精神に優しいだろっ」
「だれが君の精神を心配するか」
「してくれよっ、そこは嘘でもしろよっ」
「するわけがない」
表情変化なく、はっきりと断言したヤワに周りが軽く笑った。爆笑を堪えたからこその軽い声。この淡々とした先生様と、酒飲みの会話は一種の漫才のような効果を持っていて客たちに迎えられていた。気安くはないが、見ていて楽しい。そういう存在だ。
そんな中、いつもはくるくると軽やかにテーブルの間を走り回ってる看板娘が、ぎこちなく、全力で緊張していますっという様子を隠しきれずに、二つのトレイをもってくる。
「あ、あのっ…」
「嬢」
一つは、ここに。もう一つはそこでのらりくらり笑ってるのの前に置いてくれないか。
そう、示したヤワに看板娘は必死に頷いて。
「ありがとう」
「い、いえっごゆっくり!」
お礼と笑顔のコンボでまた真っ赤になった看板娘が脱兎の勢いで厨房に特攻するのを止めるものは居なかった。ただ一人、空になったグラスをいじましく見ていたノウェが「今なら11杯目いけるか?」とぼやくのみだ。
到着したご飯を前に、ヤワは淡々と食事を開始して。直後に手を止めた。
「口に合わないなら置いていけ」
こっちを凝視するなばか者。そう険の混じった目を向けると、青年は慌てて首を振った。
「いえっ、あのっ……」
「口ごもるな」
「先生とご飯を食べるのって久しぶりだなぁと思ったら」
なんか、凄く嬉しくて。
幸せですオーラを全開で放った青年に、ヤワは眩暈がすると眉間を押し揉み、周りの聞こえていた客が退口の中の物を噴いた。
「なぁ、お前らんとにどーゆー関係なんだよぅ」
だらしない口調のノウェに、誰もが賛同した一瞬だった。
ノウェの言葉にヤワは沈黙する。何かを言いかけてそれでも言葉が見つからないというように視線をさまよわせた挙句、料理を口に運び、咀嚼。嚥下して数秒。
「他人としか言いようがない、が」
「先生それはかなりひどいと思うんですが」
「てーか他人にゃみえねぇから困ってんだよぅ」
テーブルをかだかだ由良かノウェにかまわず、ヤワは再び魚を丁寧に切り出す。骨を押さえて身をはずし、フォークでさして口に運ぶ。実に淡々とした作業だが、機械的に見えてその実形式美の状態だ。なぁなぁとうるさく騒ぐノウェを一顧だにしないあたりが強心臓をうかがわせる。
「そう、言われても…な」
ふむと考えこむヤワに、青年が曖昧に微笑む。貴方が言うのならどんな関係でもいいですよとでも言いそうな顔をしているわけだが、内心ではどんな風に言おうと絶対に親密(それ以上)な感じに持ち込ませていただく予定です。そう呟いている。悪寒でもしたのかヤワの目がすぃと動いて、真剣に見ている青年にたどり着く。
「君はどういって欲しい」
「選択肢を与えられるのは嬉しいんですけれど、それは俺の願望ばかりじゃないでしょうか」
「私は君と他人という関係だと思う、では君はどうだろう」
言い換えたヤワに青年は軽く首をかしげて、慎重に言葉を選ぶ。気分は昔抜き打ちでやられた口問口答だ。何か間違えれば無表情のままやり直し、と参考書を投げられる日々は懐かしいと思えど、もう一度たどりたい時間ではない。
そんな青年の思いを見抜いたのか、ヤワは珍しく口元だけでない笑みを浮かべた。青年、メリルカルシェの眉間に無意識によった皺をナイフで示して、渋面になっていると指摘して。
「そんなに考え込むことはない、素直に思ったことを言えばいい」
確かに私は、以前君にさまざまなことを教えたが、今では君はひとり立ちして立派な若者だ。かつての先生にそこまで固執することはない。そんな、やや回りくどいながらも「小僧いい加減に乳離れして、自分をアレな対象と見ているとかいう錯覚を抹消しやがれこの野郎」という意味なのは、青年にだけストレートに伝わった。周りはむしろヤワのついぞ見ない笑顔というものにドン引きして、七割の人間が椅子から転がり落ちていた。ただの他人であってたまるか、この先生さまが笑ったんだぞおいっという絶叫が、ひそやかな共通事項として浸透した瞬間だった。
メリルカルシェの口元がやや引きつる。本当に、この先生は、侮る暇すら与えてくれない。
感情が伝わって、もしかして脈もあるんじゃないかって舞い上がりかけていた気持ちを、ちょっとの余地もなく叩き落してくださるのだから。
これはやはり、自分も受けてたつべきだろう。
口には出さないが、師弟二人の間に流れた緊迫感に、周囲も無意識に喉を鳴らす。そんな空気の中で、メリルカルシェは微笑んだ。
「そう、です…ね。俺にとっての唯一で、大切で、貴方なしではいられません」
「ぶーーーーーーーーーーーっ」
いじましく空のグラスを舐めるのをやめて、ヤワの水を失敬していたノウェが噴いた。
「汚いな、君は」
作品名:貴方が望むなら[前編] 作家名:有秋