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貴方が望むなら[前編]

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「いやいやいやいいやいや、そうじゃねぇだろっ」
なんでてめぇはんなにさらっと今のを――とがなりかけたノウェは、ヤワの目が焦点を結び損ねているのに気づいた。いや、平常じゃない、なんかもういっぱいいっぱいで、俺に対して文句でも言ってなければやってられないって気分なんだこりゃ。見抜けてしまう己を疎ましく思うこともなく、青年をちらりと見る。言い切った割には、どう反応されるのか心配している目で。
「旦那よぅ、男色?」
「な、なんてことを言うんですかぁぁぁぁあっ」
メリルカルシェに平然と「はい?」と聞き返し、周りの客はまた口の中の物を吐き出す。そして給仕にきていた看板娘ツェツェが絶叫してノウェの肩をぽかぽかたたいた。トレイで。
「お嬢ちゃん痛ぇって」
「なんでっ、ノウェさんはっ、もうっもうもうもうもうっ」
ぽかぽかぽかと音はかわいらしいものの、持っている武器は金属のトレイ。しかも角。若干、こぶが心配される攻撃だった。
周囲の目がツェツェの暴走に向いた刹那に、メリルカルシェは立ち上がり、ヤワとの距離を詰めて少しも目を合わせない相手の顔を覗き込む。
「大好きです、先生」
「言葉の使い方を教え損ねたか」
「いいえ、俺の言葉は貴方が教えたとおりに」
嘘偽りなく。真心を持って接したい相手には、何も飾らない。愚直なまでの簡素な、根幹の言葉を。
ナイフとフォークを一旦テーブルに置いた手をそっと握って、メリルカルシェはただの女性であれば十中八九たらせただろう笑顔を浮かべた。
「先生と初めて会ったときには、俺はもう恋に落ちていた」
「そりゃまたずいぶんませた6歳児だなお…ぃ」
うっかりと、普段の言葉遣いを省いてしまったヤワは、しまったと口元を押さえて、青年をぎっとにらみつけた。とうの本人は、至極楽しそうにしていて。
「はいっ、先生がぶっきらぼうに俺を呼んでくれるのが、凄く嬉しかったなんて」
貴方だって知らなかったでしょう?
昔みたいに、なんて言ったら語弊はあるかもしれないけれど。先生。
名前を呼んでください。メリルカルシェ・ルルラ・イーツだなんて、長ったらしいものじゃなくて。メリルカルシェ下士官だなんて役職でもなくて、友人が呼ぶようにメリルでもなく。
貴方が貴方だけが呼んでくれた言葉で、俺を呼んでください。
それだけで幸せになれるんですから。
きらきらと見つめる青年に、昔の面影をうっかり見出したヤワは、ため息交じりにまだ握られていた残り片方の手を引き抜き、その華やかな色合いの髪をくしゃりとかき混ぜた。
「お前は昔から…物好きなガキだったな。メル」
「それは先生の薫陶です」
にっこりと微笑んだ青年に、ヤワは参ったなぁと嘆息した。
参ったのは、ヤワというよりも、今までこの先生さまがこんなに顔を変えるのを見たことのなかった常連たちだった。ノウェとツェツェの微笑ましいやり取りを見ていた者たちも、参ったというのが本音だった。いつの間にか顔を寄せてなんか親密すぎる空気をかもし出してくれるのはまだいいとして、すまん、本当に悪い。なんであんたそんなに顔色変えてるんですかヤワ先生さま。
ノウェに噛み付いていたツェツェも、思わず噛み付いていた相手の肩を掴んでがくがく揺さぶって。「あれっ本当にヤワさんですかっ、ねぇっ」と聞いている始末。それが耳に入って我に返ったヤワは、こほんと咳をして、いつもの感情の薄い顔にもどった。とたんに、青年が悲しそうに席に戻る。
「…情けない顔をするな」
「ですが先生」
「どうして君は…」
そんなに私に執着するんだ。
「それを今更言いますか」
「今思い知らされたから言うんだ」
淡々と返すヤワに、青年むぅと眉を寄せ、ギャラリーが興味津々の風情で見ているのに気付いて一旦口をつむぐ。食事を再開した相手は気づいていないというか、完全に周りという物を意識の外に配置しているせいで、認識していないようだが、このテーブルは注目の的となっている。その中でこうも個人情報をこぼすのは趣味ではないが。
まぁ、第三者がいたほうが相手も逃げ場を失うだろう。
そう、さくっと割り切って。
「お忘れかもしれませんが……俺を育てたのは先生ですよ?」
「知っている」
「六歳から、十年間、読み書き礼儀作法に始まり啖呵の切り方殴り方、剣の腕。すべて教えていただきました」
「そう、だった…な」
おいおいあんた旦那に何仕込んだ。そんな目がヤワに集まる。
「その間、寝食をともにして、朝な夕な、何かあったら先生が全部、面倒を見てくださいました」
「不本意ながら」
思春期特有の悩み事から、男に矜持について滔々と解説した記憶もある。そう自分の記憶を探っていたヤワだが、ふと、そういえば色恋沙汰に関しては一度も口にしたことのない子供だったと青年を改めて眺める。
髪はさらさら色合いも華やかな黄土。目だって宝玉の緑、新緑のようにきらきらしい。造作は、悪くないのだろう。嬢が興奮して上ずる程度には、見目はいい、はずだ。半ば以上、親戚のおじさんのような心地で。
「メル、お前…そういえば私に彼女を紹介したことはないな……する気がないのか、いないのか、もてないのか、どっちだ?」
その科白に、青年は愕然とし、ギャラリーは憤然とする。先生さまよぅ、あんたこんな男前がもてねぇはずないだろっ。ツェツェにいたっては、何も言えずに前掛けを握り締めて地団駄を踏んでいる。
「……プロフェ・ヤワ」
先生という呼び方から一転した、公式呼びに男は片眉をあげた。その反応に何を言うでもなく、メリルカルシェは冷静そうな顔でプレートの魚にナイフをいれ、身を切り出し、たっぷりとソースをつけて咀嚼する。丁寧だが、どこか迫力を感じる所作。そして嚥下して「あ、美味しい」と呟いたあとに、黙って続きを待っている男を拗ねたように睨んだ。
「俺は好きな相手がいますから、その相手以外と付き合う気はありません」
その言葉にツェツェが少し気を落とす。もっとも彼女の場合恋人になりたいわけではなかったので痛手は深くない。
「それに、恋人がいたとしてもっ、俺の養育は終わったといってっ、俺が伝令につくまで会ってくれなかったじゃないですか!!」
「………うるさいのは苦手でな」
「会ったらあったでっ、他人の態度でっ、空々しい自己紹介なんてしてくださってっ、俺のことなんか忘れた顔でっ」
それがショックで少し嫌味を言ったら殴り倒してくださったのはどこのどなたですかっ。そんな状態で、いつ恋人の紹介なんてできますかっ。
もう半分泣きそうな状態だ。口調を少し荒くして、それでも冷静になろうとしてか、食事を始めた青年を見て、外野に回っていたノウェは「あ、本気で旦那ってヤワに育てられたんだな」と呟いた。冷静になろうとしてとりあえず腹に何か詰めようとする対処法は、確かに同じ行動だった。
「あーつまり、旦那は、ヤワに育てられた、と?」
「六歳から十年の間、先生の家で朝から晩まで常に行動を供にさせていただきました」
ちょっとふてた声、それもこの、要するに親代わりの男が冷たいせいだと言われれば、メリルカルシェに対するマイナス評価はゼロだ。自分の親にも等しい人間に冷たくあしらわれるのは酷いなんてものじゃないだろう。
作品名:貴方が望むなら[前編] 作家名:有秋