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貴方が望むなら[前編]

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角を曲がって、男は立ち止まる。先まで見せていた嫌そうな顔をくるりと元の無表情に戻して壁にもたれて嘆息だ。彼の友がよこしてくる使いとして、あの青年は随一でしつこい。しつこいというか、得たいが知れない。それがどうというわけでは、少なくとも身辺危機感的には何も問題はないわけだが。時折心臓に悪いのは本当だった。いや、青年の造作の見事さに息を飲んだとかそういう意味でなく。幸いか災いか、彼にとって美醜の差はあまりない。目と鼻と口があれば人間を判別するに問題はなく。何かしらが欠けても固体としての区別がつきやすいと思う程度。
重要なのは、見てくれてでなくて、それが浮かべる表情。喜怒哀楽、その色合いとも言うべき気配だ。
そういう意味で、先ほどの娘を褒めたのは本心だ。彼女が笑えば周りが華やぐ。母親のよい性質を受け継いだと常連たちでしみじみと語り合うこともある。
同じような意味合いで、彼の青年の笑顔にたまに、心臓が痙攣しそうになるわけだった。
よくわからない。それが本音。
またこぼれかけたため息を留めて、意識を切り替える。
どうして、珍しく。真昼間からこの帝都を徘徊しているのかという目的を思い出して。
「シェ…君が堕ちた理由を私が知らないというのは、おかしいだろう」
昨晩、脊髄を貫くように走った衝撃は未だ余韻として中に残っている。びりびりするような、ともすれば快楽にも似た振れ具合。気を抜けば今にも手が震えそうな。

〈星〉の陥落を示す衝撃だった。


〈導師〉と〈教授〉
〈星〉と〈観測者〉


これは世界を支える二つの柱だ。四つの点だ。
あくまでも抽象的な口伝であったそれは、抽象的であるからこそ寓意を求められる。そして偶像として当てはまるべき人物が抽出された。
それが正しいのかどうかも分からない。
それでも、〈教授〉、プロフェとして存在するヤワには〈星〉、カプリの衝撃が伝わってきていた。

「シェ」
名前を呟く。そして、一度だけ、目が閉ざされて。
「お前が堕ちるなんてのが現実だというのか」
低い声は常よりもだいぶ荒い色合い。口の中でいくつもの罵りをかみ殺して、刹那のうちに沸き起こった激昂をまた沈めて。男は目をあける。知性の内側に、奥深くにひそりと吹き上げる炎は、野粗の気配を色濃く落とす。彼が理性によって押しとどめている全ての感情の根幹。
暗い緑色が燃え上がり、そして速やかに収束した。
見た目ほど優しい性格ではない。見た目ほど四角四面でもない。
適度に筋肉のついた体は見目として、兵らには当然のように劣るものの、その辺の者たちには引けを取らない。頭でっかちだと笑う者を叩き伏せる程度の技量はある。性格としては好戦的だ。ただ、培ってきた理性というものが押さえ込んでいるに過ぎない。
彼をプロフェと呼ばず、ヤワとも呼ばない。彼の友は、彼を示して笑う。

親愛なるわが友よ、お前が知的だと囁く輩に言ってやりたいよ。
お前は私が一軍を任せてもいいと思うほどの武闘派だと。

御前で、遠まわしに難癖をつけてきた青年、メリルカルシェを拳一つで叩きのめした時の科白だった。



回想は後回しだと歩き出したヤワは幾つかの角を曲がり、表通りとは程遠い薄暗い路地にもぐっていく。慣れているのか迷う素振りはない、したがって身なりに反してさほど不審に思われずに目的地に到達した。
古ぼけた木戸に触れるとき、一度、躊躇った。
今でも体に残っている、この陥落の衝撃。びりりと走る電流の痛みだ。触れればまた生じるのではないと、戸惑うことは、〈星〉が堕ちたという事実を意識したくない証左。
そんな自己の心理を冷静の分析して、ヤワは軽く唇をもたげた。そんな機微などとうに捨てだろうと己を揶揄して、木戸を押した。
ギィと軋む音。そして篭った空気がつんっと鼻をつく。入り口は下りの段が幾つかあり、五歩も下りれば床につく。
「シェ」
呼びかけの声はいつもの彼と同じ、平坦なもので。けれど、応えはない。
「シェ…いないのか」
いないと、いいや、いると理解している言葉を口にするのがこうも空しいものだと思わなかった。
「居留守を使うにもほどがあるだろう」
シェ。
視線はうろうろとあちこちをさぐり、普段、けして足を踏み入れなかった部屋にたどり着く。木戸に触れるのとはまた違う戸惑いで、そっと扉変わりの垂れ布をめくれば、女性らしいこまごまとしたモノが置かれた寝室。
「……」
ヤワは無言で踏み込んで、ベッドからのびている白い腕に触れた。
「そうか」
蝋のような、抜けるように白い肌は綺麗で。
女性の顔は、眠りについたままの綺麗さだ。
彼女は何かに狼藉されたわけでなく、彼女の選択として堕ちたのだ。ヤワはそれを理解して、納得して、小さく笑った。
「君が…お前がそれを選んだってなら、仕方ない」
ただ、そうだな。
「カプリ・シェの恋人の顔を拝みたいものですね」
「………つけてきたのか」
「いいえ、俺もここに用があっただけですよ」
いや、素敵な偶然ですね。
華やかに笑ってみせたメリルカルシェに、ヤワはこめかみを揉み、ため息をついた。
「前々から言おうと思っていたことがある」
「プロフェと呼ぶなということでしょうか」
「シェがいたら、カプリと呼ぶなと言ったろう」
「ですがプロフェ、誰もわかりませんよ」
プロフェという言葉の意味なんて誰も知らない。この国の中枢にいる数人と、本人達しか知らない言葉だ。先ほどの娘もヤワの別名だと思っただろうし。もしかしたら、ミドル・ネームの一種と思った可能性だってある。
そんなに神経質になることはないと嘯く青年に、ヤワは、首を振った。
「君にそう呼ばれることが苦痛だと、私は言ってる」
「……」
まっすぐに不満だとぶち上げれば、青年はちょっと目を丸くして、一歩下がった。慎重に、伺う眼差しでヤワを見つめる。居心地が悪いと無駄に咳き込みたくなる頃合に、ゆっくりと疑問を一つ。
「あの、もしかしてですが」
「あ、ああ」
「俺のこと嫌ってますか?」
「…………」
なんとも答えに困る問いかけだった。
眩暈がしそうだ。そう脳内で呟いたヤワは、真剣な顔をしている青年を眺める。嫌味か何かと思ったわけだが、残念なことに真面目な質問だったらしい。
「…君は」
考えながら、言葉を選ぶ。
「君は私に好かれたいとでも?」
好かれていると思っていたのか。とは言わない。好いていると素振りを見せたことはないはずで、実際、好意なぞ…今一自覚したことがない。
「え、あ…改めて言われるとちょっと悩みます」
「だろう」
そうだろうともっ。つい勢いよく首肯したくなる程度には、ヤワとこの青年の関係は微妙に過ぎた。
「でもプロフェ、俺が志願して貴方への伝令に走っていることはご存知ですよね」
先ほど直球で言いましたから。
そう、また距離をつめつつ聞いてくる相手に、ヤワは頷いた。国の中核を担う責務としての意識がそうさせたのだろう。自分と面識を取りたがるものなぞ大抵ろくな者がいない。
「俺は、貴方に好かれたいかわかりませんが、貴方に好意を抱いてますよ」
「は?」
うんうん頷いていた動きを止めて、思わず馬鹿みたいに聞きなおす。そんなヤワに、メリルカルシェは嫣然と微笑んだ。
「以前、陛下の前で俺を殴り倒したでしょう」
「したが」
作品名:貴方が望むなら[前編] 作家名:有秋