貴方が望むなら[前編]
ツェツェは小さな胸を押さえるようにしてそっと息をつめた。周りは喧騒ばかりで、ツェツェの心臓が不自然に高鳴ったなんて誰にも聞こえないと分かっていても。押さえ込んで少しでも隠してしまいたかった。買出しの為に腕に下げた大きな(その分無骨な)編み籠を抱きしめて、そっとそっと息を吐き出す。少し離れた店で買物をしている青年に彼女の目は釘付けだった。
茶、赤という髪色が多いこの近隣で、彼は金にも見えるほど華やかな黄土の髪で、目もそれに相応しい緑玉だ。彼の周りだけまるで空気が違っていた。この辺りの娘たちは程度の違いはあれど彼に好意を抱いている。ツェツェもまた例外なく、彼に焦がれている娘だった。
意識されることはない理解していても、つい自分の格好を考えてしまって。そこを通るのに気後れしてしまう。彼とは違ってツェツェの髪はちっとも華やかでなく、暗い赤色であったし、顔立ちもぱっとしない。それでも年相応の娘としての、当然の心理が働いてつい髪を整えて、おかしな格好していないか確かめてしまう。
籠を抱きかかえるのを止めて、ぱたぱたと服装を直している彼女の後ろで、小さく笑う声がした。かっと頬を赤らめて振り返れば、見慣れた姿が一つ。
「ヤワさんっ」
「いや、嬢も年頃になったものだと…つい」
「あたしだってちょっとは…」
そりゃこんな見てくれですけどっと、膨れた娘に男は軽く首を振る。そんなことはない、と。本人が思っているほど悪くはないし、顔立ちよりも何よりも、店で見せる笑顔は十分に魅力的で。知っているから常連達は彼女のことを娘のように可愛がる。
ヤワもそれは例外でなく、一生懸命整えたのだろうくせっ毛をわざとぐしゃりかき混ぜてしまった。
「ああああああっ酷いっ」
「澄ましているよりかはマシだろう?」
「ヤワさんはそうかもしれませんけどっ」
「あれ、珍しい人が可愛い子つれてる」
顔を真っ赤にして怒鳴っていたツェツェがぴたりと動きを止めた。ついでに呼吸もとめて、そのくせ顔はさっきよりも真っ赤。
「珍しいは余計だ」
「いや貴方の姿を外で見るのって新鮮だと思うわけですが」
「それは君が私の住居にずかずかずかずか迷わずに入ってくることが多いからだろう」
「それは俺が行かなければいつまでたっても陛下のお召しをスルーしているからでしょう」
「私が行かなくても別にいいだろう?」
「困ります」
「気のせいだよ」
「直球で俺がいびられて困ってますよ」
「……口が上手くなったものだ」
「それで流さないでください、プロフェ・ヤワ」
ため息交じりに名前を呼んだ青年に、男は肩を竦めて。いつの間にか自分の後ろに回ってパニックしている娘を振り返る。
「嬢?」
「お嬢さん?」
同じように男の後ろを青年が覗き込むと、真っ赤だった顔が気の毒なくらいになって。あわあわと何も口にできない状態だ。男は合点がいったと頷くと、覗き込む青年の顔を引っつかんで遠くへ押しやった。そのままの体勢を保持。
「嬢、買出しがまだだろう。この時間に来ているということは、急ぎじゃないのか」
娘はこくこく頷いて、もう泣き出す目だ。
「今夜は必ずお邪魔すると、お父上に伝えてくれ」
さぁ、買出しをどうぞ。そう促すと。ツェツェは勢いよくお辞儀して足早に、それでもスカートの裾を手で押さえて去っていった。
「…プロフェ。痛いです」
「おや、失敬」
ひょぃと手を外したヤワにあてつけるように、自分の顔を押さえた青年は、走り去った娘の背中に軽く目をやる。
「プロフェのお知り合いにしては若いですね」
「ご両親が食べ物を扱う方でね」
「食道楽の貴方の舌が満足する場所なら、相当ですが」
「一流だ」
「そうですか、場所は?」
「うん…これは参った」
「何がです」
「嬢のお店を自慢し、繁盛させたいのは山々だが…君に私の隠れ場所がばれる」
堂々と拒否の体勢に走った男に、青年は目を眇めて。つぃっと距離をつめる。僅かに低い視線をものともせず。
「逃げなければいいんですよ」
プロフェ。
光を含んできらめく緑の目が、真っ直ぐに追い込んでくる状態だ。ヤワはつぃと目をそらして。
「いや何、将来有望な青少年を私ごとき者の為に使う陛下の気が知れない」
「それに関してはいくつか異論があるわけでずが」
「ほう」
「まずは一点」
青年は思わせぶりに指を立てる。
「俺はあくまで一般兵ですよ、多少…位置を頂いてますけどね」
「まぁ、そういうことにしてやろう」
「次に、貴方を捕獲するという急務、ええたいてい急務ですが……これは生半なものには勤まりません。実にやりがいのある職務です」
「………」
「最後に、これは陛下の命ではなく、あくまでも俺の希望ですよ…プロフェ」
「君にプロフェと呼ばれると、揶揄でしかないな」
「そうですか、それは失礼」
全く悪いと思っていない顔で青年はヤワに笑いかける。すっと正常な距離まで退いて。恭しく一礼した。
「プロフェ・ヤワ、本日は陛下のお召しでなく、この帝都までお越しくださったようですが」
俺は貴方をお連れする必要はありますか?
華やかな青年が流麗な仕草で礼節をもって接する様は、目を引いた。男はいやそうな顔で頭をふる。
「いや、今回は個人的な用事であって、陛下にはなんら関係のないことだ。メリルカルシェ、非番の君は好きにしろ」
言外に、ついて来るなお前は目立つっていうか鬱陶しい。そう言っている。気づいている青年、メリルカルシェはそれこそ、キラキラしい笑顔を振りまいた。
「分かりました、では俺はその辺りのお嬢さんに、先ほどの子の家を伺って」
夜いらっしゃるという貴方を待ち伏せして過ごすとしましょう。
そんな宣言に、質素な外套を翻して立ち去ろうとしていた男は立ち止まり、苦虫を噛み潰した顔をする。
「罵りたいならどうぞ」
「結構だ」
「俺の前で…ああ、そうでした」
ここは往来。いくら激昂した貴方でも怒鳴り散らかすはずがない。俺としたことがうっかりしてました。
ぬけぬけと、周りに聞こえない程度の音量で言い放って「いってらっしゃい」と手を振る青年に、口の中で壮絶な罵倒をすりつぶした男は足音高く立ち去った。
「さて……〈教授〉が帝都にきた」
姿勢のいい背中が角を曲がって消えるまで律儀に手を振っていた青年は、すっと腕を下ろすと独り言を口にする。視線は集まるけれど誰も彼の声に気づかない。ささやかな述懐。
「昨晩…〈星〉は堕ちた」
〈教授〉と〈導師〉はそのままだ。いや、〈導師〉が多少焦っているようにも見えるけれど。
「どういうことだ……〈星〉はもういない、なら〈観測者〉は…」
どこにいる?
そしてこの自分の配役は、どこに割り振られるというのだろう。
作品名:貴方が望むなら[前編] 作家名:有秋