貴方が望むなら[前編]
4
あの日、世界が晴れ渡る瞬間を見たと思った。
メリルカルシェは聡い子どもだった。賢い子どもだったかは知らないけれど。優しい姉と穏やかな母親と、そして少し厳格な父親が家族で、ほかに兄弟はなく。ただ親類は大勢いて。親類でない者たちの大半が自分たちに頭を下げてくれる存在だと知っていた。それがどういう意味なのは知らずとも。
そして数日前に自分がみたきらきらしている女の子がかけがえのない何かということを理解して、その人の言うことで、間違えていないと思えることなら、聞かなければならないというのも、理解していた。
だから彼はあの日唯々諾々と少女に言われるままに引き渡されることを良しとして、くすんだ髪と暗い緑の少年を見上げて驚いたのだ
無表情のまま自分を見つめる目に感情はなく、まるで静まり返った池の藻だ。揺らめきそうで、止まっているようなぎりぎり感。こんな人に預けられるのかと少しばかり憂鬱になったのは本当。けれど、少女が横柄な態度で「これだよ、お前はきっとこれを気に入る」と彼の頭を叩いたときに、相手は幾分眉を寄せ、自分を見たのが少し意外で。きっと目に入っていないのだと思ったのに。
メリルカルシェの目線では相手の膝より少し上程度しか見えない。それに気づいたのかすぐにしゃがんで、相手は真正面から彼を見た。
「ちまころしたこのガキを俺を気に入るって? 冗談もいいかげんにしろよトリゴエ」
感情は相変わらず見えない。怒っているのか遊んでいるのかも分からない声。それでも少女は尊大な態度で笑い声を上げて平らな胸をはった。
「賭けるか? お前はこれを気に入るともっ、絶対にな!」
「根拠は」
「そんなものないともさっ」
「ないのに賭けるのかっ」
「我がそう思った、それで十分だ」
「このクソガきゃ…」
「うん? 誰がクソガキだこのヨガタリ」
「何でそれが罵倒に入ってんだトリゴエ野郎」
「珍しいなお前が間違えたぞ」
「あん?」
「我は女だ!」
野郎じゃない。そう正々堂々言い切った少女に、少年は頭がいたいとこめかみを押さえ「ンな事知ってるわボケがっ、言葉のあやっもの知れやがれ」と返して、ようやく彼に目を戻した。
「おいガキ」
呼ばれたのは分かるので、瞬きで応じると彼の眉がまた寄って。それで何か間違えたのを悟ると、メリルカルシェはゆっくりと口を開いた。
「はい、せんせぃ」
「……もう先生かよ」
「へいかの言葉はぜったいだと聞いてます」
「絶対、ねぇ…えらい絶対王政だな」
「こらちまいの、違うだろっ。我はそんなこと教えてないぞっ」
「お前が言わなくてもお前の周りがそういってることだろ、ばーか」
「あっ、ヨガタリの分際でムカつく」
「ああもうとりあえず黙れ。で、ちまころ…お前俺に教えられたいのか?」
本当に? 言われたからそうとか言ったら叩きのめすぞ? そんな声がした気がして。彼は考える。周りの機嫌を害さないようにだした言葉はきっとこの相手は喜ばない。それが不思議と分かったから、彼が自分で思っていることを考えて。言葉にして。
「わかりません」
「だよなぁ」
そんなこと知らないという言葉に、少年は納得した。そして小さく笑ったのだ。目が微かに狭まって、笑みにも見える、程度の微笑。
「んじゃ、お前。お試しでやってみるか…俺も一応こいつの言うことを一度は聞いてやらなきゃなんないからな」
「返品不可だしかと受け取れっ」
「お前人間をお前のもののように扱うつってんだろ」
「この国にいる限りは我のものだっ」
「あーはいはい、えらいわけな。とりあえず黙れ」
本当に、少女の顔面を鷲づかみして黙らせた少年は、暴れる相手をぺいっと投げ飛ばすと、再びしゃがんで、目を眇めた。一歩間違えればやぶ睨みのような目つきだが、声が、軽く浮くように感じ取れて、漸くこれが少年にとっての笑みだと理解した。
それはまるで世界が晴れ渡る瞬間のような感動。
見えなかった何かがわかった瞬間だ。思わず凝視したメリルカルシェに気を悪くした様子もなく、少年はぽすりと彼の頭を撫でて何か気に入ったのか口元すら緩めて。
「ちまころ」
「メリルカルシェです」
「長いな、メリル? いやメルでいいか」
「はい」
「メル、俺は手が早いし優しくない。泣きたくなったなら泣け、帰りたくなったら帰れ」
「はい」
「俺はそれを気にしない、俺がそれを気にするようになったら、お前にちゃんと教えてやるよ」
「はい」
「よし」
本当に理解してるのかどうかもわからない子どもに、少年は変わらない顔で一つ頷くと、漸く自分の名前を名乗った。
「メル、俺はヤワだ。お前がどう呼ぶかはお前が決めろよ」
「はい、せんせぃ」
少し舌足らずにもうどう呼ぶのか決めている顔で見上げるメリルカルシェに、ヤワは片目をまた狭めて、淡く笑った。
メリルカルシェが思っていたよりも少年は偏屈だった。同じ帝宮に住むかと思えば彼は通ってくるからいいという、住んでいる場所は帝都から離れた場所。どうやって通うのだ。そんな考えが顔に出たのか、投擲から復活した少女で呆れ顔で頷いた。
「ヨガタリ」
「なんだ」
「ここに住むかコレもってくかどっちかにしろ」
「………」
さすがに無茶だと理解していたらしい少年は眉間に皺を寄せて、彼を見下ろす。
「家族仲はどうだ」
これで悪いといったら連れて行く気だろうか。そんな考えもやっぱり顔に浮かんだらしい。何かいいかける相手に気づいて、メリルカルシェは意気込むように、相手の手をつかんだ。タックル状態だ。
「………俺と行くか?」
少し、躊躇う口調で問いかける相手に、ちまころ生物はにっこりと、花が綻ぶかのような笑みを浮かべた。
「はぃ」
かりこりと、こめかみを掻く姿。少し困っている風情。
家族とは元々距離が遠い家庭だ。仲はいいけれど、四六時中一緒ではない。一人部屋で、朝から晩まで大抵一人で、手伝ってくれる者たちに囲まれて、姉が時折相手してくれるていど。一日に一度、親の顔を見てご飯を食べることが出来ればいいくらいだ。
だから離れることに不安はなかった。それに、どうしてだろう。メリルカルシェはこの少年の顔を見ていたかったのだ。微かな感情の色をもっと読み取りたかったし、その所作に気が引かれる。
綺麗、ではないと思う。綺麗というならば少女や自分の姉の方が断然綺麗で。色合いだってキラキラしていない。どちらかといえば暗い色彩。
それでも彼にとって少年は目を離せない存在になっていた。姿を見て一日もたっていないのに、言葉だって今少ししか交わしていないのに。
掴んでいたい手だ。掴んでて欲しい手だ。自分を見て、ちょっとでも笑ってくれたら幸せになれる気がする。楽しそうに笑わせられた、きっと凄く嬉しい。
そう考えていることを、彼は何の疑問もなく受け入れていた。
例えば神さまがいて、これが運命だよっと言った結果がこの状態だったとしても。例えば神さまがいて、これは違うだろうと彼の手からこの腕を取り上げようとしたとしても。メリルカルシェにはもう関係ない出来事だ。
ちまころした子どもは、子どもなりの決意で、一対の鳥の神さまを向こうにしても負けずに動けるだけの何かを、胸の中に抱いてしまった。
「トリゴエ、何歳だ」
作品名:貴方が望むなら[前編] 作家名:有秋