貴方が望むなら[前編]
成人前に放り出したせいか、相手が酔うのをみるのは初めてだった。ヤワは宿のベッドでつぶれている元教え子を見下ろして、少しだけ感慨にふける。数秒で元の状態に戻ったが。
「兵舎に連絡を入れなくてもいいのかい」
「外泊申請出してきました…せんせー」
酔いの回った口調で手を伸ばされて、思わずとればひっぱられる。片手をついて転倒を免れて、何をするのかと睨めばとろりとした目が迫っていた。
「…近い」
憤然として相手の顔を枕に叩き落す。その手際に青年はくすくす笑って。
「君が酔いつぶれるから私まで引き止められただろう」
「はい」
「理解していない声だな」
「はぃ」
楽しそうにヤワに向かって手を伸ばす様子は、昔の姿にかぶる。強請る所作は年を重ねても変わらないものらしい。ノウェに対抗するように杯を重ねた青年は、案の定足元がおぼつかない状態で、放置して帰ろうとしたヤワを掴んで離さない。かといって、この状態の人間を連れて行けるほどヤワの家は近くなく、どの道、帝都に来る時は一泊予定で、押さえていた宿に連れて行くはめになっていた。
「全く…」
見てくれはいいらしいのに、どうして君は私になぞ執着するんだか。
微苦笑とも言うべき、複雑な笑いがこみ上げているのに自覚せず、自然と口角が持ち上がっていた。譲ってしまったベッドの縁に腰掛けて、昔仕方なく唄を歌い、寝付けない子供をあやしていたときのような気持ちで青年の頭を撫でる。
「…せんせ」
ひやりとして気持ちいいです。そう無邪気に笑う様を見る限り、まだまだ子供にも見えるのに。
もういいだろうと放り出したあとなんか知らなかった。メリルカルシェはヤワではない。だから彼自身の生きかたでこれからを過ごすだろうと漠然と、突き放していて。
それはヤワの性質でもあったから、あれ以降の青年を知らない。彼の友が面白がって青年を伝令役として引き合わされたときも「ああ生きていたか」程度にしか思わなかった。
感慨なぞ、抱くこと自体滅多にないのだ。なのにどうしてだろう。いざ目の前にしてしまえば様々な感情が渦を描く。調子が狂いそうになる。
子供の頃から華やかだった黄土の髪は、成長した今も変わらず繊細な色合いで、目の新緑ともあいまってきらきらしい。特別な意味もなく、こういう容貌が美しいという形容に該当するのだと、ヤワですら理解できる。無意識に撫で続けていた手は、酔っ払っている本人によって止められた。手をつかまれて。指を絡めるようにとられて。
「大きくなったものだ」
手放した頃は自分よりもまだ手が小さく、体も柔らかそうに見えたのに。今ではいっぱしの大人の骨格で、手もまだすべらかだけれど、そう変わらない大きさ。そう、淡々と分析していたヤワは、またひっぱられ今度こそ相手の上に倒れこむ。
「メル!」
「せんせぇ」
ぎゅぅ、そんな擬音語を口にして青年がしがみ付いてきた。
「離さんか、この馬鹿者がっ」
「せんせ…」
ぎゅぅ。
幸せそうに笑うさまに力が抜けそうになる。しかしここで抜けてしまって何か怖いことになりそうで、色々かき集めて厄介な拘束から抜け出すべく足掻く。暴れているうちに体勢が若干入れ替わり、上から下へ転がっていた。
「酔っ払うと倍増しで面倒臭い人間だな君は」
「酔っ払うと理性がなくなるっていいますから」
「…酔ってるふりをしてるわけじゃないな?」
「酩酊状態ですよ…せんせ」
「そのわりには受け答えがしっかりしてるようだ……が」
本当に酔ってるのかと疑心を抱いたヤワが一旦暴れるのを止めて、相手の顔を覗き込めば、やはりとろりとした目で、幸せそうに笑んでいる。
「お酒はせんせーが強いですね」
「…そのようだ」
「それが、凄い嬉しいです」
ふわふわと、ちょっと心元ない口調で。青年は笑う。惜しみなく、空気に溶けそうなほど軽やかで甘い笑み。砂糖菓子よりも綿菓子よりもまだ甘い、幸せの色。
「せんせ…大好きです」
それだけを言ってぱたりと寝てしまった青年に、ヤワはつかの間呆然とし、次に愕然とした。
〈教授〉はその名のとおり、知識を携え、教え授けるものだ。彼の中に知識はある。それは無限の引き出しのように彼の中に整頓されており、彼が望めばデータとして再生されるオートのシステムだ。したがって、彼が望まなければ浮かび上がりもしない世界の理論。知りたいことを自ら学んで知りたいと思えばその取っ掛かりすら出てこない。ヤワはあくまで人間であり、プロフェという言葉によって何かの端末にされているようなものだ。
そしてそのシステムが故に、知識を煩雑に持ち出さないように、感情に鈍かった。激することなどない。感情が高ぶるのも、フリ、だけだ。そうした方がいいからするというルールに則って演じる無意識の配慮だ。
根底にある緩やかな感情を引き出して拡大して体表ではじけさせているような。
笑う、哀れむ、落胆する。喜ぶ、その全てがささやかな起伏の増幅で成り立っている。欲求を持たないように、なっている。何かの欲が強ければ、満たすために知識を引き出すだろう。けれどその欲が弱ければ、引き出す気にならない。
そんな己のあり方に、男はさほど異論を持っていなかった。だから、相手の笑顔と好意に呆然とし、呆然とした自分に愕然とした。
笑顔が子供の頃の面影を残していて「懐かしかった」「可愛いと思った」それが、自然と湧き上がって呆然として、感情が動いたという事実に愕然として。
もう、頭の中が滅茶苦茶だ。ゆっくりと絡められていた手を外して、青年をベッドに寝かしつけた後は者も言わずに椅子に腰掛け、細く長い息をつく。
この疲労感も嘘じゃない。なんの欺瞞もなく、自分は今疲れている。この青年を厭わしく思っていないが為に、感情の振幅に疲弊している。
目を閉じて。
「………だから、子供の面倒を見るのは嫌だと…あれほど」
お前が俺にこんなガキ押し付けなければ、俺は今でも平穏無事に感情に疲れず何も思わず日々の飯が美味ければどうでもいいとのんべんだらりと過ごせたのに。なんだこのガキ。本当に、鬱陶しい。今からでもいいからぶち殺してやりたい。したらなんか苦しそうだからしないが。もう、こうなると気づく前にとっと叩きのめして突き放していびり倒してしまえばよかった。
今からでも遅くないという確信があれば、今すぐ殺している。この手で死ねることを誉れと思えなんて呟いて、首を折っている。
でももう情が移ってると理解してしまった。
クソガキの頃からちまちまころころくっついていたのが、こんなでかくなって。それでも自分を好いているとついて来る姿に絆されている。忌々しい。面倒くさい。感情なんて、本当になければもっとずっと楽なのに。なんでこのガキはこの自分にこんな窮屈な思いを抱かせるのか。
苛々する。苛立ちすら滅多にないというのに、この青年が傍にいるだけでこんなにも感情は簡単に波打って、精神を苛む。
脳裏に響くのは友の軽快な笑い声。「だからいったろ、お前はこのガキを気に入るってな!」そう高らかに笑うだろう少女の反響。これは近いうちあって文句を垂れ流しにでもしなければ気が治まらない。
今は帝宮の奥深くに身を沈め、休息に浸ってるだろう姿を思い浮かべて、ヤワは痛烈な舌打ちと、口汚い罵倒を零した。
作品名:貴方が望むなら[前編] 作家名:有秋