天女の血
「それじゃあ」
男は言う。
「もう刃物をおろしていいよ。あなたは、そこにあるパイプイスに座って、眠っていて」
それは西村に向けられたものらしい。
西村は包丁を持った手を力が抜けたようにだらんとおろした。
そして、背もたれのあるパイプイスに深く腰かけると、眼を閉じた。
包丁を膝の上に置き、眠ってしまった。
その光景を美鳥は食い入るように見ていた。
本当に、指示されたとおりに動く。
そうなることを予想していた。
けれども、想像と実際に見るのとは違う。
胸に感じる衝撃が違う。
喉がカラカラに渇いている。痛いぐらいだ。
うしろから、生徒の話し声が聞こえてきた。放課後を楽しんでいるような明るい声。
家庭科室の戸の向こうの廊下にいるのだろう。
その声がなんだかやけに遠くに感じる。
さっき、美鳥はこの教室に足を踏み入れたあと、すぐに戸を閉めた。
自分の手でこの教室と廊下を隔離したのだ。
窓のカーテンはすべて締められている。
外からは見えない。
そんな部屋に、自分と男と、そして男の言いなりで今は眠っている西村の、三人でいる。
「僕は君の敵じゃない」
すぐそばで男の声がした。
優しい声。
余裕の響きもかすかにある。
「おとなしくしてくれていたら、君を襲った吸血鬼の正体を教えてあげよう」
吸血鬼の正体。
昨日おとついと美鳥を狙ったあの男のことだ。
いま自分を捕らえている男とどういう関係なのだろうか。
恐怖を感じながらも、知りたい、と思う。
男の手が美鳥の口から離れた。
美鳥がさわがないと、判断したのだろう。
口をふさぐものがなくなって、呼吸がしやすくなった。ほんの少しだけ、ほっとする。
男が美鳥の肩をつかんだ。
肩を軽く押される。
「あのイスに座って」
誘導されるままに、美鳥は歩く。
男の着ているスーツが視界が入ってくる。
丸イスのそばまできた。
男の手がやっと美鳥の身体から離れる。
美鳥は丸イスに腰をおろした。
そのあいだに男は美鳥の正面へと移動する。
男も丸イスに座った。
その顔を見る。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
心がふわりと浮かびあがったような感覚。
状況をすっかり忘れ去って、ただ、じっと男の顔を見ていた。
見とれてしまっていた。
美しい。
この世のものとは思えないほど。
男は微笑んだ。
自分を見た者のこうした反応に慣れている様子だ。
しかし、それが嫌味にならない。
いっそう華やかな印象になる。
その口が開かれた。
「まず自己紹介しよう。僕の名前は竹沢正樹」
艶のある美声が続ける。
「僕は、鬼だ」