天女の血
明良は眼を強くつむり、うつむいた。
頭をあげることができない。
圭の顔を見られない。
「どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でもわからない」
刃物で他人の身体を突き刺したのだ。
「殺そうと思ったわけじゃない。実際、傷は浅かった。でも、深く傷つかないと思ってたわけでもなかった。そこにあったのがハサミじゃなくて包丁だったら、その包丁を使っていたかもしれない。それで深く傷つけてしまったかもしれない」
カッとなってしたこと。
だが、頭に血がのぼって自制がきかなくなれば、あんなことをしてしまう。
それが自分の本性かもしれなくて、恐れを感じる。
「あのあと、すぐに我に返った。頭にのぼってた血が引いていった」
眼のまえにある現実を見て、身体が震えた。
何歩か後ずさった。
握りしめていたハサミから手を離すと、それは畳へと落ちていった。
「自分がなにをしたのか認識して、怖くなった」
あのとき、宜也はひどく驚いた表情をして立っていた。
反撃も防御もしなかった。
驚きのあまり、動けないでいるようだった。
「怖くて、逃げだした」
ちょうど近くに自分のカバンがあったので、とっさにそれを引っつかんでから、部屋を飛び出した。
「とにかく逃げたくて廊下を走っていたら、名前を呼ばれた。それで、つい立ち止まって、振り返った」
明良、と呼びかけてきたのは、もちろん、宜也だった。
宜也は傷口を手で押さえて立っていた。
「だけど、向こうはなにも言わなかった」
ただじっと食い入るように明良を見ていた。
「そのうち、家の中にいた他のひとたちがやってきた」
皆、何事かと緊張していた。
「逃げられないって思った」
行く手をふさがれた状態だった。
「でも」
あきらめたとき。
「明良を逃がしてやれ、明良を追うな、って声が聞こえてきた」
宜也がそう叫んだのだ。
あたりに響きわたるほど大きくて、どこか悲しげな、声だった。
「だから、逃げることができた」
宜也がああ言わなければ、自分はすぐにつかまえられていたはずだ。豊原家から逃げだせなかっただろう。
なぜ宜也が自分を逃がしてくれたのかは、今でもよくわからない。