天女の血
結依は無表情で続ける。
「美鳥が誕生してからしばらく経った頃、豊原の者が市川美鳥名義の口座を開設した。そして、その口座には毎月、豊原宜也名義の振込がある。かなりの金額だが、財閥の御曹司が支払う養育費と考えれば妥当な額だ」
あたりまえのように話しているが、内容は他人の口座についてである。
そこまで調べあげる奥野の情報収集能力の高さには、うっすらと恐れを感じる。
もっとも、正樹はそれを顔にはまったく出さずに、悠然とした態度でいる。
「その美鳥名義の口座の通帳などは、市川家に送られたのだろう。だが、市川夫妻はその口座に手をつけたことはない。事の経緯を考えれば、たとえ娘の養育費としてであっても使いたくないのだろう」
淡々とした結依の声に棘が混ざるようになった。
怒り。
それは、市川夫妻に向けられたものではないはずだ。
「我が一族の者が、市川明良が豊原宜也をののしっているのを聞いたことがある。我ら奥野には、特殊な聴覚に恵まれている者がいるのでな。外でのこととはいえ、市川明良は他の者には聞こえないと思ったのだろうよ」
奥野の特殊な聴覚について、正樹は以前に聞いたことがあった。
単純に耳がよく聞こえるということではなく、ある程度の遠さまでは聞きたいと思う場所の音をピンポイントで拾えるらしい。
「市川明良は豊原宜也に言ったそうだ」
結依は鋭く言う。
「人さらいの強姦魔、とな」
やっぱりか。
そう正樹は思った。
推測が裏づけられた。
「しかも、春日明良が家出をしたあと、その足取りを追えなくなった、つまり豊原宜也にさらわれたと思われる頃から、妊娠した時期まで、二ヶ月近くある。これがどういうことか、わかるな?」
結依が挑むように眼を見すえてくる。
「ああ」
正樹はうなずいた。
しかし、それ以上は言わない。
当時は大学生で二十一歳だった豊原宜也は、家出中の十八歳だった春日明良をさらい、監禁した。
そして、二ヶ月近く、あるいはそれ以上、宜也は明良を犯し続けた。
そういうことだろう。
市川夫妻が豊原宜也から一方的に送られてきた養育費に手をつけなかったのも、それを話す結依の声に棘が混じったのも、理解できる。
「その後、春日明良は豊原宜也のもとから逃げだした。その時点では、おそらく、明良本人も妊娠に気づいてなかったのではないかと思う。そして、路頭に迷いかけていた明良を市川律子が拾った。それからのことは、さっきそちらの言ったとおりだ」
「でも、春日明良はよく豊原から逃げられたね。あそこは、かなり厳しいって聞いてる」
豊原一族は厳格なことで知られる。
この町では竹沢の力が強いが、豊原一族の住む町での豊原の支配力のすごさにはかなわない。
春日明良が豊原本家から逃げだせたとしても、町からは出られなさそうなのだが。
「そのあたりのことは、よくわからん」
結依が素っ気なく答えた。
嘘をついているわけではなさそうだ。
考えてもわからないので、この謎については置いておくことにする。
「それにしても豊原宜也のイメージに合わない。真面目で、誠実で、堅物。春日明良にしたこと以外では、いくら探っても、そのイメージを傷つけるような材料は出てこないのに」
「ああ」
結依が同意した。
そして、続ける。
「その真面目で誠実な堅物すらも、天女の血がくるわせたということだろう」
だが、それでもやはり、くるわされた宜也は加害者で、くるわした明良は被害者に違いないのだ。