崩壊世界ノ黙示録
普段はこういった喜怒哀楽の感情を、信頼した人間の前以外では見せないのだが、今回の件についてはそれなりに苛立っていたということなのだろう。
何せ、此処に到着したアシエが機関長――エニスから受けた指示の内容が、それほどに酷いものだったからだ。
『世話頼む』
彼が発したのは、その一言だけだった。それ以外には何も告げずに、エニスは剣呑な翳りを見せた顔で背を向けて歩いていってしまうのだから、こちらとしても抗議の声を上げている暇も無い。
結局、機関長の命令に逆らう気にもなれずアシエはその指示に従うことにした。過去には刃向かった事も多々あったが、その後に待ち受けているのはとん
でもない罰だった――と、ここでそんな懲罰に吐き気がしたので、アシエはその過去を記憶の奥へと押しやった。
だが、そんな精神の葛藤を知らないリコスは、気配りも無い饒舌な口を開く。
「ねぇ。なんで賢者って創られた存在なのに、感情やそこから来る涙があるんだと思う?」
「何よ、急に」
唐突ながらも最も過ぎるその質問。彼女自身も、過去から現在に至るまでの19年間それを考えてきた。結局、答えにありつく事などありはしなかったが。
ましてや過去の人間は一体何故自分達の「代わり」を残したかったのだろうか?本質的に『人類』というものは世界の一生物なのであって、絶対に存在しなければならなかったものでも無いだろう。
やはりそこは人間の生存願望なのだろうか?最も、過去の人類が持ちえていた感情と、造られた存在である自分たち『賢者』が持つ思想や考え方は違っていたかどうかなど、もう確かめようの無いことだったのだけれど。
「そもそも、より完璧な人類を創り出したかったのなら、感情なんていう面倒臭いシステムを取り入れなけりゃ良かったんだ。だって、感情なんてあったら邪魔だろう。人類が完璧になるのには、感情に縛られずに、ただ無機的に生きるのが節理じゃないか。消すべきものは全て抹消し、残しておくべきものは護る。争いごとなんて無くなるし、生きることに空しさを想う事も無い。なにより、嫌悪感というものを知らずに済む」
そんな青年の台詞に、意味もわからないままアシエは頷いていた。自分でも気付かない内にそんな反応を返してしまったのか、それが疑問にならないと言えば嘘になるが、かといって大した疑問にはならない。
燻る疑問は、他にまだまだ沢山頭の中にあるのだ。最早自分の行動に疑問を感じている程、脳の残容量に余裕は無かった。
とにかく、アシエはこれ以上彼に疑問の種を植え付けられないように、暫定的にまとめた自分なりの考えで反論した。
「感情が無いほうがいい……なんて、人それぞれが語れるものじゃないわ。あなたみたいに頭で考えただけで、まるで世界を代表して意見を述べたみたいな態度しないでくれる?それともそれは取り繕ったの?」
そんな下らない会話をしながらも着々と歩は進めていたので、いつの間にか目的地の傍まで辿り着いていたらしい。既に賑わっていた通路からは道を逸れ、普段は余り使用されない棟まで来ている為、人の姿は疎らとなっていた。
「それは君の想像に任せるよ」
彼の返答を聞いたところで、曲がり角に突き当たった。実際、彼が行った立ち振る舞いの真意など、さぞどうでもいい事だ。突然足を止めたアシエに、こちらもまた足を止めたリコスが「どうしたの?」と問いかけてきたが、それには答えず通路の突き当りを右に進む。
しかし曲がった先にもう通路は無く、ただ1枚の薄汚れた質素な鉄扉があるだけだった。扉上には『アシエ小隊』と手書きの木板が貼り付けられている。少女にとって見慣れた扉も、客観的に見てみると相当に酷いものだ。
「着いたわ。今日からここがあなたの仕事場……吐き気がするけど、まぁ一応言っておくわね。よろしく」
この部屋の『主』はそう言って、偽善とした笑みを浮かべて手を差し出した。悪態まで吐いて置いて、今更そんな偽善を取り繕ったところで意味は無いのだが、ただなんとなく反応に困って欲しかっただけだ。
だが――やはり、と言うべきか。
「ああ、こちらこそ宜しく。俺の大嫌いな小隊長さごふっ」
次の瞬間、アシエはリコスの微笑んだ横顔を鉄板入りの安全靴で蹴り飛ばしていた。まさか本気ではなかったが、それなりに殺意を込めた一蹴を受けた張本人は小さな呻きを上げてその場に倒れ込む。
(――つくづく、むかつく奴)
苛立ちの元凶を蹴り飛ばせたおかげで幾分気が軽くなった少女は、珍しく鼻歌を歌いながらも鉄扉を片手で押し開けた。きっと今、背中ではリコスが殺意の念に支配された顔をしていることだろう。もしかしたらあのまま暫く起き上がってこないかもしれない。
少女にしてみれば、寧ろ後者のほうがずっと良かったのだけれども。
「アシエ!よかった、帰ってくれて!もしかして毛むくじゃらの原始人か何かに誘拐されたのかと思った!」
部屋に入るなり、盛大にタックルをかまして抱きついてきた小柄な女の子は、押し倒すなり猛烈な勢いで頬を寄せてくる。
「何、それ、どんな心配?」
そんな冗談にくすくすと笑いながら、アシエは普段見せない程柔和な笑みを浮かべた。
彼女の名前はパルト・ネール。パルトはアシエが小隊長を担っている隊の研究員で、部隊武器の開発と改良、任務のオペレーション……加えて≪黙示録≫の解明まで行ってくれる、この隊にとっての貴重な人材と同時に好き仲であり、アシエが素のままの感情を見せる数少ない人物の1人だ。
「ちょ……っ!くすぐったい、くすぐったいからっ!」
そんな彼女――パルトに後ろに回していた手でうなじをなぞられ、くすぐったさの余り暴れ出しそうになりながらも、何とか少女を引き剥がす。どうにも猛烈過ぎる歓迎だったのだが、アシエはパルトのこういうところが嫌いではない。
「へぇ、俺は暴力を振るわれたのに無視か」
――だがその時。少女の背後から、少しは上機嫌になっていた気持ちを再び深淵へと落とす、災厄の男の声が響いた。
疎ましさを感じながらもゆっくり後ろを振り返る。と、そこに居たのは。
「……なんだ、起きてたの、リコス」
「起きてたのってさ、君」
右頬を真っ赤に腫らしたリコスが、苦痛の表情を浮かべながら立っている。その表情に笑みは無く、いつものような余裕も見当たらないことを確認したアシエは、心の中で「ざまあみろ」と悪態を吐いてやった。
「相当に性格が出来上がってるね。人のこと蹴り飛ばしておいて、そんな一言で済ませるなんて」
「ごめんね。痛かったでしょう?もっと蹴られたくなったでしょ?」
「絶望的に謝れてないから、それ。謝罪の気持ちが無いなら、寧ろ何も言わなくていいくらいに」
誰から見ても普通ではない光景。冷淡な口調で語る少女と、皮肉を叩きながらも腫らした頬を押さえる青年。たかが会話を聞くだけでも、互いが心の底から嫌悪しあっているというのが明白な筈だ。
それが普通だ。普通なのだ。その筈だったのだが――
「え?何これ?もしかして、幼馴染の人と偶然に会っちゃって、「好きでした」なんて告白してみたいけど、彼が他の女と付き合ってたから頭に来て蹴り飛ばしたの図?」