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「月傾く淡海」  第五章 赭星の行方

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 傍らに侍った采女が、銚子を持ったままビクッと肩を震わせる。割れた土器を片づけるふりをして橘王の傍を離れた采女は、麻布を取りに行くという口実を作り出して、そのまま大王の間から下がっていった。
「摂津の樟葉では、深海王とやらが、正式に『男大弩の大王』として即位したというじゃないか! しかも、主だった豪族の中にも、それを認めてあちら側に寝返る者が続出している! 俺は、こんな筋書きだとは聞いてないぞ!」
 激昂した橘王は、顔を真赤に紅潮させて、眼前の大伴金村を叱責した。
「あちらは偽王だ、正統性はこちらにある、と断言したのはお前ではなかったのか!?」
「……申し訳ございません。何分にも、深海王側は、玉璽を有しておりましたゆえ……」
 金村は平伏したまま、小声で申し開きをする。
 だがそんな彼の態度は、橘王の怒りに余計油を注いでしまった。
「瀬田の戦いで、物部から玉璽を奪い取ってみせると豪語したのは、貴様ではないか! それが失敗したのみならず、軍の大半まで失いやがって!」
 橘王の鋭い語気を浴びて、金村は床に額をつけたまま顔色を失った。
「あれは……あれは、本来ならば、我が軍の圧勝に終わるはずの戦いでした。それが、得体のしれぬ者たちによって……」
「壊滅させられてしまったんだろう」
 橘王は吐き捨てた。
「お前の部下に任せた列城宮の軍は、神(あや)しい閃光によって、一瞬で殲滅したというじゃないか。わずかに生き残った者たちも、みな正気を失い『軍神(いくさのかみ)を見た』と戯言を言っているとか」
それを降ろせる巫も、もはや今の世にいるはずもございません。恐らくは、物部側の何らかの策略に違いなく……」

「だが、敗けたことには変わりあるまい!」
 橘王は、激しい語調で金村を責めた。
「お前は大連でありながら、軍を失い、威光をも失わせた。もはや人心は、下々に至るまで深海王に傾いている。――見ろ、この宮の有り様はどうだ!」
 橘王は、怒気荒く叫んで両手を広げる。
 金村は、平伏したまま唇を噛んだ。
 権力に追従する者たちは、己が身を守る為に、時流を的確に読む。
 始めは橘王側についていた豪族も、「瀬田の戦い」を契機に形勢が逆転したと見るや、あっという間に深海王側へ流れていった。
 かつては有力な豪族たちで賑わっていた列城宮だが、今では昔日の面影もない。
 人気の疎らとなった宮には索漠とした雰囲気が漂い、残っているのは僅かな手勢と後見を持たぬ皇族、そして行く当てもない舎人や采女くらいのものだった。
「……勢いづいた物部軍は、『男大弩の大王』を奉じて山背の筒城から弟国へと南下を続けているというじゃないか! このままでは、大和に入られるのも時間の問題だぞ! お前らは、奴らがこの列城宮まで来たとき、ここを護れるのかっ!?」
 橘王は、顔を歪めながら怒鳴った。その頭の奥には、物部軍に対する恐怖が張り付いている。
「それは……もちろん……全力をもってお守り申し上げますが……」
 金村は、歯切れ悪く返す。
 彼自身にも、今の勢力でどこまで戦えるか、自身がなかったのだ。
 金村は、曖昧な返答を繰り返しながら時間を稼ぐ。彼は自分がどう動くべきか、心の内でひどく迷っていた。
 ――その時。
「……無理だな」
 不意に、室の外側から冷淡な声が響いた。
「葛城王……」
 金村は瞳を上げ、声の主を咎めるように睨む。
 開け放した戸の向こうには、回廊に座り込んで夜空を見上げている若い男の姿があった。
 葛城一族の若き王・香々瀬である。
 香々瀬はずっと、大王の間に背を向けて大和の星空に見入っていた。
 『盟友』であるはずの金村が、先程から橘王に叱責され続けているというのに、香々瀬は一向に間に入ろうとしない。彼にとて、今回の件の責はあるはずだ。
「……今、なんと言った? 葛城王」
 剣呑な瞳で香々瀬を一瞥すると、橘王は即座に立ち上がった。
「主力を失った今の大伴では、物部を防ぎきることは出来ない。奴らがくれば、この宮は落とされる。――そして、お前も死ぬのさ」
 組んだ足に腕を乗せ、瞬く星空を見上げたまま、香々瀬は恬淡と語った。
「ふざけるな!」
 橘王は憤激して叫んだ。
「大王になれるといって、俺を大和まで連れてきたのはお前たちだぞ!」
「だが、策に乗ることを選んだのは、お前自身だろう」
 香々瀬は突き放すように言った。
「丹波の山奥で土地の厄介者として一生を終えるはずだった貴様が、ひと時でも甘い夢を見れたのだ。それだけでも、幸せではなかったか?」
 香々瀬は橘王の方を振り向き、鮮やかに憫笑した。
「何が幸せだ! このままじゃ、偽王を騙った反逆者として、処刑されてしまうじゃないか……」
 言っている内に恐ろしくなったのか、橘王は顔色を失って唇を震わせ始めた。
 そんな彼を哀れむように見やり、香々瀬は唇を開く。
「……ではどうする? ここから、逃げるのか?」
「逃げる? ……ああ、そうだ! 最早、逃げるしか道はない。もう、大王くらいなんて、どうでもいい! 俺は、この命さえあればいいんだ。お前たち、俺をどこか安全な場所まで送り届けろ!」
 口調は命令だったが、橘王の言葉には懇願の響きが混じっていた。恐怖に苛まれた彼は、もう、己の身の安全にしか気が及ばなくなっていたのだ。
「橘王……」
 惑乱する橘王を目の当たりにして、金村は困惑する。
 回廊にいた香々瀬は立ち上がり、金村の前を横切って橘王の前に立った。
「……もう一度、問う。汝は、『逃げる』のだな? この宮を捨てて」
「あ、ああ、そうだ、早く……」
 橘王が言い終わらぬ内に、香々瀬は傍らの壁に掛けられていた飾り太刀の柄に手をかけた。
 そのまま、素早く刀身を抜く。迷いのない動きで白刃を煌めかせると、香々瀬は橘王の身体を斬った。
「――香々瀬どの……っ!?」
 目の前で起こった信じられない光景に、金村は驚愕の叫びをあげた。
 だが香々瀬は動揺一つ見せず、太刀を振ってその刀身から橘王の血を払う。
 彼は金村に背を向けたまま、橘王の亡骸に向かって吐き捨てた。
「下賎な小者よ……。演技力だけはあると思っていたが、所詮付け焼刃の品格では、この程度が限界だったか。――貴様の仕込みが悪かったのではないか?」
 香々瀬は振り返り、金村を一瞥する。
 その瞳には、これまで金村が一度も見たことのない冷酷な光が宿っていた。
「そこそこに使えると思ったから、連れてきたのだが。これでは、王裔というのも疑わしかったな。まあ、今となってはどうでもいいが……」
 絶命して横たわる橘王の遺骸を、香々瀬は一片の情けも無く踏みつける。
 金村は、突然の出来事に愕然としながらも、なんとかその唇から言葉を搾り出した。
「香々瀬どの……なんという事をされたのです! こんな男でも、我らにとっては唯一の切り札だった。これで我らは、物部に対抗する『大儀』をなくしてしまったのですぞ!?」
 金村は、年長の権威を振りかざして、気強く香々瀬を叱責しようとした。
 相手は、金村よりも遙かに幼い少年……しかも、これまで金村がその立場を利用してきた少年である。
 彼は愚かで、愚鈍で、脆いはず……だった。