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「月傾く淡海」  第五章 赭星の行方

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 稲目は、自分が真手王から取り上げたらしい太刀に目を落とす。その長い刀身には--べっとりと、赤い血が塗られていた。
「……っ、俺、俺……!」
 稲目は思わず太刀を取り落とした。
 床に転がった太刀を見つめたまま、全身に震えが走る。立っていられなくなり、思わず稲目は床に座り込んだ。
 --自分が何をしたのか、理解出来なかった。
 稲目は、恐る恐る顔を上げた。
 床の上に、真手王が倒れている。
 彼の胴には貫かれた跡があり、そこから恐ろしい勢いで鮮血が流れ出していた。
「--真手王!」
 悲痛に叫ぶと、深海は真手王のところに駆けより、彼を助け起こした。
「真手王、真手王、しっかりしろ!」
 深海は泣きそうになりながら、真手王に呼びかける。 真手王は土気色の顔でぐったりとしていたが、やがてうっすらと目を開けた。
「……深海……」
 その声を聞いた途端、深海ははっと息を呑んだ。
「真手王--お前か! お前なんだな!」
「……ああ、そうだ……。俺だよ……どうやら、『あいつ』は逃げたらしい……」
 真手王は弱々しく笑う。
 微かだが、確かに怜悧な光を宿したその瞳は、間違いなく深海の知っている真手王のものだった。
「『あいつ』……? ああ、真手王、お前は一体どうしてしまったんだよ!」
「深海……覚えてるか? 何年か前の朔の日の夜に……二人で、淡海に舟遊びに出かけたのを」
「--え?」
 虫の息で突然昔語りを始めた真手王を、深海は一瞬驚いたように見つめた。
「あの時……あの夜、俺は月のない淡海の空に、一際大きく、赭(あか)く耀く妖しい星を見た。お前はあの時見えなかったといったが……俺は、確かに見たんだ」
 苦しそうに喘ぎながら、真手王はきれぎれに話す。そんな彼の顔を見つめながら、深海は言われるままに記憶の糸を辿った。
 確かに昔、二人で朔の夜に淡海に出かけたことがある。詳しいことは、もう覚えていないが……真手王その時、『赭い星』を見たというのか?
「ひどく禍々しい……赭い星だった。俺はそれを、とても美しいと思ったよ……。だが、その時からだ。俺の中で、時折別の声が聞こえるようになった」
「--別の声?」
「声はしきりに俺に話しかけ、俺の心を浸食し、やがては完全に俺の意識を食い潰すようになった」
 苦々しく語る真手王の話を聞いた時、深海は先刻までの、まるで別人のようだった彼の姿を思い出した。
「……それが、さっきまでお前の体を使って話していた--僕を、大王にしようとしていたやつなのか!」
「……ああ、そうだ。だが、刺される直前に、奴は俺の中から出ていってしまった……」
「そいつは誰なんだ!? お前をこんな風にして、いったい何処へ……っ」
 深海は悲憤に顔を歪め、耐え兼ねるように叫んだ。
「わからない。『あいつ』は間違いなく、あの『赭い星』……だが、それが何なのか……。しかし、奴の目的は、ただ一つだ」
 苦しそうに目を閉じたまま、真手王は断定した。
 深海は、真手王の姿をした者が発した、呪わしい言葉の響きを思い起こす。
「……大王家への、復讐?」
「そうだ……。奴は、それを遂げるまで、何度でも同じことを繰り返すだろう……いいか、深海」
 真手王は震える手で深海の襟を掴み、その耳元で言った。
「『あいつ』は、また次の依り憑き先を探し、自分の思い通りになる、新しい大王を求めるだろう……。いいか、次に新しく大王を名乗る者……その中に、あの『赭い星』は潜み、操っている……そいつを、必ず討ってくれ!俺の……俺の仇を、深海、お前が!」
 必死の形相で懇願し、真手王は血塊を吐いた。
 彼は再び深海の腕の中に倒れ込む。荒かった真手王の息は、だんだんと弱くなっていった。
「……わかった、真手王。俺が必ず、次に大王を名乗る奴を討つ。--約束だ。お前の為に、俺はそいつを殺すから……っ」
 耐えきれず涙を落としながら、深海は友の体を抱きしめた。
「……同じ道を行きたかった。叶うならば、ずっと……」
 深海の肩に頭を預けたまま、真手王は静かに呟く。
 --それが彼の、別れの言葉なった。
 深海は物言わぬ真手王の亡骸を抱えたまま、ひとり激しく痛哭した。
 ……この世で一番大切な、かけがえのないものを、今永遠に失ってしまったのだ。
「……あ、あの……深海さま。俺、俺、なんてことを……!」
 稲目はずっと、目の前の光景を呆然と見つめていた。
 しかし真手王が死んでしまったと判った瞬間、激しい衝撃を受けて、その場で平伏する。
「ごめんなさい、俺……俺、俺が真手王さまを殺したんだ!」
 床に頭を擦りつけて深謝する稲目の姿を、深海は虚ろな瞳で眺めた。
「許してなんて言えない。俺を、俺を斬って下さい、深海さま……」
「……そんなことしたって、真手王は戻ってこないよ」
「だけど……」
「……いいんだ。あれはもう、ずっと前から、僕の知ってる真手王じゃなかったんだ……それにあのままだったとしても、、彼が救われる道もなかったしね……」
 深海は、悲傷に満ちた微笑みを浮かべた。
 この人は今、とても大切な人を喪ってしまった。この人にこんな思いをさせたのは、他ならぬ自分なのだ。
 そう痛感した時、稲目は、深海の為には自分はどんなことでもしなければならないのだ
と、覚悟した。
「俺、償うから。どんなことでもする。俺にできることなら、なんでも。一生かけて、償うから!」
 稲目は必死に懇願した。
 深海は、そんな彼の姿をどこか不思議そうに見つめていたが、やがて口を開くと穏やかに言った。
「……じゃあ、君がずっと僕の傍に居て、僕の力になってくれると約束するかい? --かつて、僕とそう約束した、あの友のように……」
「ああ、約束する! 絶対だ!」
 強く頷いて誓う稲目を見ながら、深海は虚ろに乾いた笑いを浮かべた。
 この少年と自分は、同じ仲間だ。
 「大王擁立」という逃れ得ぬ巨大な渦の中で、自分は最愛の友を……そして、彼は大切な主を喪ってしまった。
 我々は、共に遺された者……悼みを抱えて生きていかねばならない者たちなのだ。
 ならば、せめて、共にいよう。
 その喪失を思い出して辛い時、少しでも、互いが相手の慰めとなれるように。
 同じ傷を抱く者として。



 大銀杏の大木の一番上の枝に、葛城一言主は両足を広げて立っていた。
 空を見上げる。
 深い藍色の夜空には、無数の星々が瞬いていた。
 初冬に近い、冷たい澄んだ大気は、よりいっそう星空を鮮明に見せる。
 だが、今宵の星々の中に、一言主の探し求めるものは見いだせなかった。
「逃げたか……星神。また寸前で離れやがったから、わかんなくなっちゃったじゃないか……。本当にすばしっこい奴だよ……祀厳津(みいかつ)。--次は、どいつに憑く?」
 一言主は、独言のように呟く。
 見上げた夜空に、彼に返事を返すものはなかった。




「……いいか、必ず大王になれるって言って俺を迎えにきたのは、お前らだ! だから、わざわざ丹波から危ない橋を渡ってまで来てやったんだよ! それなのに、これはどういうことだっ!?」
 床几に座したまま、橘王は酒の入った土器を床に投げ捨てた。