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「月傾く淡海」  第五章 赭星の行方

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 香々瀬は今まで、怯えながらも、金村の指示通りに動いてきたのである。彼は、使いやすい駒だった。
 あの「瀬田の戦い」で全てが狂い始めるまで、金村の計画が順調に進んでいたのは、香々瀬の存在を最大限に利用出来ていたからである。
 だが――今。
 この少年は、一体何を始めたのだ!?
「……もう、傀儡は要らぬのだよ」
 香々瀬は、金村を見上げて嗤嗤した。
 それは、禍々しいほど凄艶で、それまで優位に立っていた金村に戦慄を感じさせる程のものだった。
「傀儡は思い通りにならぬもの。何度取り替えても、結局は勝手なことを始めてしまう。……『我』は、考えを変えたよ」
「香々瀬どの……?」
「《宮》は、ここにある。幸いなことに、新しい《器》も手に入った。……なれば、後は、《主》のみ」
「何を言われているのです?」
 金村は不安げに聞き返す。
 彼には、香々瀬が何を言い出したのか、まるで理解出来なかった。
「……大伴の。汝には、『これ』が何に見えるかの?」
 香々瀬は、太刀を持たぬ方の掌を己の胸に当てて、金村に尋ねた。
「何、とは……貴公は、葛城王どのでは……?」
「――そう、葛城の、王なのだよ、『我』は!!」
 香々瀬は突如、弾かれたように哄笑した。
 高慢で尊大なその姿には、かつての小胆な童男(おぐな)の面影はどこにも見出せなかった。
「三輪や河内よりも先に、この地にあった王権を知っておるか!? それは葛城、葛城の王朝だ! ――『我』はこれより、葛城王朝の復古を宣言する。もう、どの大王の王裔も要らぬ。……『我』こそが、新たなる「葛城の大王」なのだからな!」
 香々瀬は高らかに宣言した。
「……葛城王朝……葛城の、大王……?」
 香々瀬を見つめながら、金村は呆然と繰り返した。
 ――千年以上も前にあったかも知れない、幻の王朝の復古!?
 ……そんな夢みたいなことが、現実に叶うはずがないではないか。
 香々瀬は一体、正気なのか。
 だが、恐怖に戦き凍りつく金村に向かい、「葛城大王」は冷厳と告げた。
「……汝はまこと、幸いな男よ。この希少な瞬間に立ち会えたのだからな。――ゆえに、選ばせてやろう。今ここで逃げ出して『我』に殺されるのと、後に『我』の為に戦って死ぬのと――どちらが良い?」
 鮮麗な笑みを浮かべて、「葛城大王」は残酷に言った。
 金村の背を、冷たい汗が落ちる。
 自分は今まで、「葛城の香々瀬」という少年の――何を見ていたのか。
 彼は、表向きの浅慮に顔の裏に……こんな恐ろしい素顔を隠していたのか。
 これが、香々瀬の本性だったというのか。
 利用しているつもりで、その実、逆に彼の手の上で踊らされていたのは、金村の方だったというのか――!?
(それとも……?)
 金村は、息を呑んだ。
 何か、そら恐ろしいものが、蠢き始めたような気がする。それが何なのかは、分からないが。
 ただ、今の金村に理解できたのは、自分が最早逆らうことも引き返すことも出来ない深い道に踏み込んでしまったという事――そして自分は、とてつもない過ちを侵してしまったのかもしれない、という事。
 ……ただ、それだけだった。

(第五章おわり 第六章へつづく)