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「月傾く淡海」  第五章 赭星の行方

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「大王は、古から天照大御神の神裔であると自称している。……そんなこと、真実がどうかなんて、誰にも分かりはしないがな。だが、大王家は天孫であることを至上の誇りとし、その正統性をもって豊葦原の統治者であることを任じている--ならば」
 真手王は太刀を鞘から抜き、その銀光きらめく刀身の切っ先を、深海の眉間に突きつけた。
「俺は、この手で天孫の血を穢す。古から受け継がれたというあの血脈に、永遠に消えぬ呪いの楔を打ち込むんだ。--その為に、お前が必要なんだよ」
 真手王は突如、顔中に歓喜の表情を浮かべた。
「さあ、乗っとってやろうぜ、あの血筋を。誰もがお前を誉田別の王裔と信じ、歓呼の声で宮に迎えるだろう。だが、これから先、大王家に流れ続けるのは、大王とは何のつながりもない、異国の侵略者の血だ! こんな愉快なことがあるか!?」
 深海は思わず目を閉じた。
 こんな禍々しい言葉が真手王の口から流れ出るなど、信じたくなかった。
「真手王……どうして。どうして、お前がそんなことを……」
「それが、俺の『復讐』だからだ」
「お前が大王家に復讐しなければならない理由なんて、何もないじゃないか……」
 深海は泣きそうになった。
 少なくとも自分の知る限り、息長にも、真手王自身にも、大王家に対するこんな激しい恨みはないはずだ。
 それなのに、どうして--。
 深海は、苦渋に満ちた思いのまま目を開ける。
 そうして、眼前にある友の姿を眺めた。
 その相貌には歪んだ喜悦が浮かび、彼の双眸は狂喜の光で満たされている。
 --誰だろう、これは。
 深海は、ふと思った。
 そこには、長い間親しんだ--けれど、まったく見たことのない男がいる。
 こんな男は、知らない。
 これは、真手王では、ない。
「……お前は、真手王じゃ、ないのか」
 深海の唇から、確かめるような響きが零れた。
 真手王の姿をした男の瞳に、一瞬動揺の色が走る。
「何を……言う。俺は、息長真手王だ。ずっとお前の傍に居た友じゃないか」
「いや、違う。お前は僕の友じゃない。--お前は誰だ。どうしてそこにいる。真手王はどうした。僕の友は、どこにいるんだ!」
 叫ぶたびに、深海は自分の中で確信を深めていった。
 ここにいるのは、自信に満ちあふれ、けれどいつもどこか優しかった、あの友ではない。
 これは--真手王の姿をした、偽物なのだ。
「僕は、真手王の勧めがあったから、大王として立つ決意をしたんだ。……だけど、それは違った。始めから間違いだったんだ。僕は、野州に帰る。そして、僕の真手王を探す」
 深海は迷いのない口調で男に告げた。
 そうだ。全て、間違っていたんだ。
 もう一度、やり直さなくてはいけない。始まりの場所である野州に戻って、最初から、全てを。
「野州に帰るだと!? 大王位は、どうする気だっ」
「……僕は大王になんか、ならない。そうさ、お前のいうとおり、僕には大王になる資格なんてないんだ。野州に帰って、一番大切な者を取り戻す。それが、僕の願う全てだ」
「ふざけるな……ここまできて、後に引けるなどと思うなよ!」
 激昂した男は、その手に持っていた太刀を、すっと横へ滑らせた。
 深海の白い喉に、赤い筋が走る。時をおかず流れ出た血は、瞬く間に深海の襟元を濡らしていった。
「俺たちは、既に罪を共有している。お前はもう逃げられない。何としても、大王位についてもらう。……抗うというのなら、手足を切り落とすぞ。体が欠けていようと、命さえあれば、人形としては使えるのだからな」
 男は太刀を構える。
 脅しではない、と深海は思った。
 首の傷は、動脈ぎりぎりにつけられている。男がその気だったならば、さっきの一閃で深海の命を落とせたはずだ。
 本気で自分を斬ろうとしている男と対峙しながら、深海は次第に激しくなっていく傷の痛みを感じていた。



 息長軍の中に残ることになった稲目は、深海の直属の従卑のように扱われていた。
 どうもおかしな成りゆきになったとは思っていたが、他に行く所もない。それに偶然からとはいえ、深海の大王擁立に関わり、その内情を幾許かでも知ってしまった稲目には、
常に陰ながら監視の目が光っており、自由に逃げ出すことも出来なかった。
 仕方ないから、稲目はとりあえず深海に仕えておくことにした。真手王の方はなんだが近寄りがたくて恐かったが、深海はこれが大王になる人かと思うくらい気さくで、幼く身よりのない稲目を何かと気にかけて可愛がってくれた。
 だが、それらはあくまでも当座のことである。稲目の主は、やはり倭文以外にはいなかった。
 物部軍の戦力として組み込まれた彼女とは、瀬田川の戦い以降、離れ離れになったままだった。
 聞きかじっただけだが、あの場所では随分激しい戦が行なわれたらしい。倭文は尋常でなく強いから、きっと大丈夫だろうけれど……それでも稲目は、彼女がどうなったのか、ずっと気になっていた。
 そんな時、物部軍が合流したとの知らせが入った。
 倭文に会わせてもらえるよう、深海に頼んでみよう……そう思った稲目は、「台盤から奥殿に白湯を持っていくよう命じられた」という口実を作りだし、慣れない手つきで盆を運びながら、深海のいる室へ向かった。
「深海さま、稲目です。白湯をお持ちしました」
 室の前で声をかけると、稲目は返事も待たずに戸を開けた。
 誰か舎人がいたら、無作法な、と叱られただろう。しかし稲目は、これまで貴人に直接仕えたことなどない。だから、細かい作法など知らなくても仕方なかった。
 倭文がどこにいるのか、聞かせてもらおう。そう期待に満ちて奥殿へ入っていった稲目がそこで目の当りにしたのは--信じられない光景だった。
 真手王が、深海に向かって太刀を突きつけている。
 しかも深海は首に大きな傷を負い、大量の血を流していた。
「--深海さま!」
 稲目は、盆を取り落とした。白湯の入った土器が床に、落ち、砕け散る。
 その時稲目に理解出来たのは、真手王が深海を殺そうとしている、ということだけだった。
 真手王が何故、そんな暴挙に走ったのかなど、理由はわからない。だが稲目は咄嗟に、深海を救わなくてはならない、と思った。
「真手王さま、太刀を離して! こんなことしちゃ、いけない!」
 稲目は真手王の腕に飛びついた。必死でその束から彼の指を引きはがそうとする。
「離れろ、小僧! 貴様も殺すぞ!」
 真手王は、凄まじい力で稲目を振り払おうとした。
 しかし稲目は決して離れまいとして、夢中で彼の腕にしがみつく。
 --とにかく、この太刀をとりあげなくては!。
 稲目はただ、それだけを考えた。
 揉み合う中で、何度も真手王に殴られた。稲目も数度蹴り返した。口の中には錆びた血の味が広がり、体のあちこちに鈍い痛みを感じた。
 --遠くで、深海の鋭い叫び声が聞こえた。
 真手王ともみ合っているとき、稲目の頭は真っ白だった。何も考えられなかった。
 気付いた時、稲目は床に転がっていた。
 正気に返った稲目は、慌てて起き上がる。その右手には、何時の間にかしっかりと太刀を握りしめていた。