メリッサに愛を
本文
ミルドレッドの頭上には何も遮るものの無い、あおい空が広がっていた。雨雲が通り過ぎたばかりの、人工の白い地面は雨粒を弾いてとても滑りやすい。恐る恐るパンプスのつま先から踏み出すと、つるり、つま先が滑ってミルドレッドの視界が反転する。したたかに打ちつけた尻がじんじん痛んだ。黒いスーツの裾、スカートが濡れてしまった事に気付き、ミルドレッドは血の気が引いていく。これでは仕事どころではない。きっとクロエに叱られてしまう。転んでも手放さなかったファイルの水滴を払い落し、ミルドレッドは一本道に足を踏み入れた。
道の両脇には二階建ての白い建物が並んでいる。太い一本道から細い道が幾重にも枝分かれして、奥へ奥へと続いていた。同じ風景ばかりで、ミルドレッドには未だにどこに何があるのか覚えられない。右側の、一本道に入ってから三十五番目の細い道に入り、左側二番目の道に入れば後は道なりに真っすぐだと、同僚にこれだけは覚えさせられた道順で職場へと向かった。職場――他の建物よりも二回り大きな建物の前に見慣れた後ろ姿を見つけ、ミルドレッドは駆けだした。
「クロエ!」
こちらを振り向いた同僚の目の前で今度は頭から転び、頭の天辺からスカートの裾まで濡れそぼって、ミルドレッドは同僚にきつく叱られる事となった。
「これじゃあレモンと言うかまるで葉っぱだな」
カーターは森の奥地でぽっかりと空いた、何も遮るものの無い、あおい空を見上げた。
鬱蒼と茂った葉と枝が縁取る空は両端がすぼんだ楕円形をしている。
「こんなものが空に浮いていたなんてね。未だに信じられないわ」
声の方を見やると、上司の姿はつい数秒前よりもずっと先を歩いていた。カーターは慌ててその後を追う。地面を蹴ると、薄く積もった土が舞い上がり人工の白い地面が覗いた。
十年前に突如墜落した遺跡には同じ形をした建物が整然と並んでいる。
「全く、今や天下の魔術師団のする仕事じゃないわね」
カーターと同じく青いローブを着た上司に、カーターは違いないと頷いた。調査責任者はあなたじゃないか、とは言わないでおく。優秀な魔術師のみで構成されている魔術師団の役割はより良い魔術の利用と開発である。遺跡探検はお門違いだった。
「魔術師団に所属する魔術師程になると不可解な事象を解明する事も義務ということよ」
「わかりました、セピア隊長」
自らの失言に気付いた上司――セピアがわざとらしい咳払いをして訂正する。長い黒髪と切れ長のくろい眼、すっきりとした目鼻立ちの与える冷淡な美貌に惑わされている男は山ほどいたが、セピアの左手薬指には真新しい指輪が光っている。
「行くわよ。『メリッサ』に入れる機会なんて滅多にないんだから楽しみましょう」
昔上空に浮いていたと伝えられているこの遺跡の名は文献に『メリッサ』と記されている。空に浮いていたこの遺跡がレモン型をしていた事に由来しているらしいが、地上に墜落した時の衝撃によるものか現代に残っているものは全体の半分ほどしかない。魔術の発達した現代であっても空に大質量の――小さな町まるごと一つ分の大陸を浮かせられる技術は無い。物好きな魔術師や歴史家は未知の技術の解明に躍起になっている。その、物好きな一部の人間が発掘に行ったまま消息不明になるといった事が頻繁に起きていた。魔導士がその調査に入ったのはおよそ一年前になる。セピアとカーターの仕事は遺跡の安全確認だった。
セピアはメリッサの中で最も大きな一本道を進んでいく。カーターはその後を追った。
太い一本道から枝分かれする小道は葉の葉脈の様で、遺跡の隅々にまで延びている。
「カーター、メリッサは元々空飛ぶ遺跡だったのか、空飛ぶ町が墜落して遺跡になったのか、どっちだと思う?」
通れる小道を探しながらカーターは思案する。十年前に突然墜落した『メリッサ』につきまとう疑問。ずっと昔から空に浮かんでいたものがなぜ突然墜落したのか?人はそこで暮らしていたのか?様々な疑問は未だに解明されていない。
「死がいや遺体は見つからなかったらしいじゃないですか。空飛ぶ遺跡だったんじゃないですか」
「遺跡と呼ぶには真新しい気がするけど」
「そりゃ地上に落ちてきて十年しか経ってないから当然でしょう」
「空の上のほうがもっと汚くてぼろぼろになりそうじゃない?風強いし吹きさらし、」
「何かありましたか?」
「今、足音聞こえなかった?」
同じような風景ばかりで時間の感覚がなくなって来た頃、他の建物よりふた回り程大きい建物の前で二人は立ち止った。耳を澄ませてもカーターには足音は聞こえない。
「今、声みたいなのが」
ぎっ、重い音と共に目の前の建物の扉がひとりでに開く。
「俺が先に」
中に入ろうとするセピアを手で制し、カーターが先に建物に入った。ここでセピアに何かあれば彼女の夫が黙っていないだろう。魔術師団での地位と権力で謀殺されてしまいそうだ。
カーターの声が建物の中を響いている。真暗い室内には十歩も行かない距離に壁がかろうじて見えるだけだった。二歩、四歩、八歩。壁に手を着き部屋の端まで行くと、途中に壁とは区切られた壁――扉の感触があった。カーターが押すと、扉は軽い音をたてて奥へ開く。セピアを呼び寄せる。扉の隙間から射す陽光に二人は目を細めた。
建物の奥側は崩れているらしい。陽光に照らされて、床には瓦礫と、樹と草の陰が伸びている。樹は大樹だった。いくつもの木が絡み合い一本の樹の形をしている。広がる枝と葉には様々な種類があったが、どれも生き生きと空を向いていた。
「クロエ!」
不意に響いたソプラノ――セピアの声ではない――に、カーターとセピアは体を翻した。女性の声の方を、正面に向く。
暗がりに鮮烈なしろい綿毛髪、暗い色をした眼と紅い唇、生気の無い真しろい肌をした小柄な女性が、駆け寄ってくるのをぴたりと止める。手には開いた黒いファイルを持っていた。
「クロエじゃない・・・」
女性は調査に来ている魔術師にも歴史家にも見えない。魔導士はしくじったらしい。
不意にセピアが動いた。ローブの下から瓶を素早く取り出し、女性の方へ投げる。
「隊長!」
瓶が床に落ちる前、女性はファイルに目を落とし、
「剱を」
甲高い、まるで少女の様な声が響く。疾風が草と大樹の枝を切り裂き迫るのを、カーターはセピアを樹の方へ突き飛ばし、転げる様に疾風を避けた。姿無き剱はそのまま建物の壁を裂く。壁が崩れ退路が絶たれ、カーターは茫然とそのつるりとした切断面を見た。
聞いたことのない魔術だった。古い魔術には呪文の無いものがあると文献に記述があったが、まさか。
魔導士が勝てなかった相手に魔術では勝ち目がない。カーターは優秀な魔術師だと自負しているが自身に魔術師止まりの力量しかない事もよく知っていた。いくら不可解な魔術を使うといっても相手はパンプスを履いた華奢な女である。
カーターは駆けだした。女性が口を開くより早く、華奢な身体めがけ肩から飛び込む。押し倒し、真っ先に口を塞いだ。女性の首元で一つにまとめられていた綿毛髪の隙間から、細い首に歪な形を晒している機械が覗いた。