グレートマザーの赤と青
「何よ、気のない返事して。ユリのお父さんになるかもしれないのよ。そうしたら生保も受けなくていいし、あんたもあんなとこで働かなくてもいいし、普通に学校にも行けんのよ。いいことづくめじゃない」
ばっかじゃないの、と私は思い、かかとを思い切り鳴らした。
「お母さんはあの人が好きなんでしょ。だから結婚したいんでしょ」
だったらそんな言い訳しないでよ。私はその言葉を飲み込んで唇を噛んだ。口を開いたら涙が出そうだったからだ。無性に悔しかった。破壊衝動が心臓の底で生まれ、血と一緒に体中を流れ、指の関節に留まって震えている。何が悔しいのか、それすらもまだよく分からなかったのに。
しかし私は結局、その次の日からもずっと「あんなとこ」で働き続けた。今まで以上に必死で働いた。教師に疑われないよう、学校には一日おきに行った。言葉を交わす人間は宏至と担任以外にいなかったが、私は特にいじめを受けていた訳ではない。というよりいじめられるほど皆に近づけもせず、空気のごとく存在感のない人間であり続けた。
夏休み前の大掃除の日、私の班が担当している音楽室を宏至が訪ねて来た。私は仕事を割り振ってもらえずにただぼうっと立っていただけだったので、促されるまま外へ出た。学校の前にあるコンビニで棒アイスを買い、店の前で食べながら話をした。
「ユリ、家出ろよ」
宏至は食べかけの青いソーダアイスを見つめながら呟いた。私は耳を疑った。母の再婚のことはもうとっくに宏至に話してある。だから彼はもう私にそんなことを言わなくてもいいはずなのだ。耳の奥が真空になる。私は宏至の、まだらに日焼けした横顔の輪郭を目で辿りながら、次の言葉を待った。
「何度も言うけど、あの家にいる限り、お前ずっと母ちゃんから離れらんねーぞ」
私がいつも通りその勧告を拒絶すると、宏至は大きく胸を上下させて声を荒げた。
「お前ってさあ、母ちゃんの愛情欲しがってるだけの人間で、自分が全然ねーんだよ! お前がどんなに必死んなったって、その新しい父ちゃんに勝てる訳じゃねーだろ。お前が期待する以上になんて愛してくんねーんだよ! いい加減気付けよ。ほんとに嫌なんだよ、お前のそういうところ」
宏至は棒をゴミ箱へと投げ込み、溶けたアイスでべたべたする手を私に差し出した。
「おれが一緒に逃げてやるからあの家出ろ。そしたら自由になれっから」
作品名:グレートマザーの赤と青 作家名:まちこ