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彼岸花

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 祖母は、生まれたときからずっと広島に住んでいる。そして八歳のときに被爆した。
 広島では、大抵小学校四年生か五年生で、平和公園に社会見学に行く。それ以外にも映画鑑賞などで、様々な平和教育を受ける。栞が通っていた小学校では、五年ぶりに夏休みに入る前に被爆者の話を聞く行事が開かれた。その時に招かれたのが加代だった。
 最初はつまらなそうにしていた子供たちも、話が進むにつれて真剣な顔をして聞き入っていた。話が終わった後、いつもは真面目な話を茶化して怒られる男の子も静かで、体育館全体に思い空気が漂っていた。他の子供たちと同じように話を聞いていた栞は、体調を崩して加代に連れられて早退したのだ。
 その次の日から、栞は不思議なものを見るようになった。
 信じられない光景だった。本物を見たことはもちろんない。しかし、それが加代の話に出てきた人々であることは、一目で分かった。
 気が狂いそうだった。幸い、家の中では何も見えなかったので、体調不良を訴えて学校を休んだ。
 それでもごまかしきれなくなり、必死で学校に通っていたが、栞のただごとではない様子に気づいた加代が、栞から話を聞いて、栞の両親に報告した。体調の良くなる兆しのない栞を間近で見ていた両親は、話を聞いてすぐに引越しを決めた。最初は転校を嫌がって駄々をこねた弘も、姉の様子を見て大人しくなったらしい。長年住んでいたとは思えないほど迅速に、一家は広島を離れた。
 それから今年まで一度も、広島に帰ってくることはなかった。

 加代は何も悪くない。栞も両親も親戚一同も、同じことを何度も何度も加代に言った。それでも、加代はまるで小さな子供のように自分のせいだと言って聞かなかった。
「栞ちゃんはおばあちゃんっこだったけえ、もしかしたら共感しすぎちゃったんかもね」
 真由美が帰りのタクシーを拾ってくれた。
「やっぱり、おばあちゃん、まだ気にしてるのかなあ…」
「栞ちゃんも気にしとる?」
「ちょっとだけ」
 五年間、まったく連絡をとっていなかった訳ではなく、むしろ頻繁に手紙や葉書、電話でやりとりしていた。元気そうな加代の声を聞くと、本当に安心したし、許されたような気もした。
「栞ちゃんが気にしたら、おばあちゃんも余計に気にするんよ。昨日もお父さんが言っとったけど、二人とも悪くないんじゃけえね。あんまり気にせんのよ?」
「……うん」

 加代が退院できるとの知らせがあったのは、真由美と栞がお見舞いに行ったその日のことだ。真由美と母と叔母は三人で退院祝いの買い物に出かけ、家には相変わらず体調の優れない栞と、弘を除いた男三人が残された。
 昼間は暑くて縁側に出られないので、栞は縁側に面した風通しのいい部屋で寝転がっていた。
「踏むぞー、栞」
 頭上から信隆の声が聞こえた。部活は午前中だけだったらしい。
「おかえり、信隆」
「年上を呼び捨てにすんな。カルピス飲むか?」
 うん、と言って起き上がった。信隆の入れるカルピスは妙においしい。
「今日、何日か覚えとる?」
「ええと、五日? ……あ」
「明日、どうすんだよ」
 八月六日、平和公園で行われる、平和記念式典。野口家は毎年、家族全員で参加している。栞たちが引っ越してからは、家族の半分になってしまったが。
「俺は、別に家におってもいいと思うけどな」
「でもなあ……どうしよう。またおばあちゃんが気にしたらいけないし」
「一緒じゃろ、どっちでも。行っても行かんでも、おばあちゃんは心配するで」
 頭を抱えた。選択肢が少なすぎる。
「ま、今晩までには考えとけよ。俺は行かん方がいいと思うぞ」
 信隆はカルピスをぐいっと飲み干して、台所へ去って行った。

「ほんまに行くんか?」
「うん」
 式典に出席する。次の日の朝、そう告げると、みんなからは心配そうな顔を、信隆には呆れた顔をされた。
「そんなん言うても、大丈夫なん? ほんまに? 暑いけえ、余計しんどいかもしれんよ?」
 真由美が心配しながら帽子を貸してくれた。真っ白なワンピースに身を包んでいる。
「大丈夫。前よりはずっと楽だから」
 五年前に引っ越してからずっと、いずれまた出なければならないと思っていた。ちょうどいい機会だ。それに、何事もなく出席できれば、加代が気にすることもなくなるかもしれない。
 今年の八月六日は、じりじりと焼けるような暑さだ。

 暑さは栞にとって幸運だった。暑すぎて、いつもははっきり見えることが多いものも、ぼんやりとしか見えない。
 しかし耳だけはしっかりしていた。市長の話も、子供の誓いも、すべてはっきりと聞こえた。すんなりと頭に入ってきた。
 そうか。そうなんだ。
 碑の向こうで、平和の灯が燃える。
作品名:彼岸花 作家名:百千