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彼岸花

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 式典のあと、真由美達が、栞が最後まで無事に過ごしたことを喜んでくれた。
 大人たちは、加代を迎えに病院へ向かった。弘は偶然会った友達と話しこみ、真由美も学校の用事があるらしい。栞と信隆は二人、川に面した木陰で休むことにした。
「気分は?」
「あんまり悪くない」
「そりゃ良かった」
 信隆が、川に石を投げた。二度跳ねただけで沈んだ。水面の波紋が広がっていくのを見ながら、栞に尋ねた。
「見えとるんか?」
「なんでか分からないけど、今日はあんまり」
 現に今も、対岸には生身の人しか見えない。
「すっかり広島弁とれたな」
「とろうと思ってとったんじゃないけど、自然とね」
「広島、ずいぶん来とらんかったしな」
 また石を投げた。今度は一回も跳ねずに沈む。信隆は石を投げるのをやめて、座り込んだ。
「なんか、見えるって不思議じゃね。しかも栞だけ。意味とか、あるんかな」
「さあね。でも今日思ったのはさ」
 栞も足を芝生に投げ出して座った。素足にちくちくするが、冷たくて気持ちいい。
「本当に起こったことなんだなって」
「そりゃあ」
 信隆の言葉を遮る。
「でも実感ないでしょ」
「まあ、な。ない。ほとんどない。平和になってほしいとは思うけど。ていうか、今ここは平和じゃもんな」
「上手にカルピス作れる十七歳の男の子がいるくらいにね」
 まあな、と信隆が笑った。栞も笑った。
「あたしだって、見えても実感なかったよ。……まあ当たり前なんだけど。でも今日、本当のことなんだって思った。やっと、そう思えたのかな」
 淡々と進む式典。静かな言葉に込められた強い想い。
「世界中、平和になってほしいよね」
「世界、か」
 信隆が立ち上がって、また石を投げた。どうしても二度以上は跳ねない。
「石投げるのもカルピス作るぐらい上手かったらいいのにね。信隆?」
 対岸をじっと見つめて立ち尽くしている。
「なあ、栞。向こう岸、見えとる?」
「向こう岸?」
 信隆の視線の先には、確かに人影がある。現代の街中では見かけない、国民服を着た少年が立っている。
「見えてるけど、信隆にも見えるの?」
 信隆が黙ってうなずいた。視線は対岸の少年から外さない。いや、外せないのだ。信隆が今どんな気持ちなのか、栞にはよく分かるが、どうしていいのか分からず、とりあえず立ち上がった。

 向こう岸の少年は、恐らく栞と同じくらいの年だ。表情はよく分からなかった。ちょうど顔が影になっている。唯一見える口元で、笑っていないということは分かった。
しばらくじっと立っていると、小さくお辞儀をして、すっと消えてしまった。まるで、幻影のように。
「見た?」
「見た」
 今まで一方的に見ていただけで、自分に向かって何かされたのは初めてだった。それに、他の火傷を負った人々とは違う。見る限り、少年は無傷だった。栞は混乱していたが、信隆にはもちろんそれ以上の衝撃だった。
「お辞儀しとった」
「してたね」
「どういう意味なんかな」
「頼んだんだよ」
 栞は、半分は勘だったが、かなりの確信を持って口にした。
「たぶん、だけど。平和な世界にしてくれって」
「……そんな頼み方されたら、聞くしかないよな」
 お互いに、隣の手をぎゅっと握った。

「そう、そんなことがあったんね」
 灯篭流しのときに、加代にこっそり話すと、加代は驚きつつも、優しく微笑んだ。
「今はまだ、祈るだけでもいいんよ。みんなが、ほんまに心からそう思っとったら、きっと平和になるけえね」
 そう言って、そっと灯篭を川に浮かべた。もう川には何十という灯篭が浮かんでいる。栞はそれにまた一つ、灯を加えた。
「これが、みんなの祈りだよ」
 隣の若い父親が、小さな娘の頭を撫でながら言った。
 広島の、悲しみを未来に変えるための夜。見えるものにも見えないものにも、心から祈りを捧げた。
 美しい夜だった。

作品名:彼岸花 作家名:百千