evergreen/エバーグリーン
『evergreen/エバーグリーン』
夢うつつの中、名前を呼ばれた気がした。
今の状況で呼ぶのは一人しかいないから、軽く頭を動かして「……ん、なに?」と反応する。自分で思っていたよりも寝ぼけた声に、即座に焦った声が返された。
「あ、ごめん。寝てた?」
「ううん、ちょっと、うとうとしてただけ。で、なに?」
「――いや、いいよ。朝になってからで」
そう言って、枕にしてくれていた腕と反対の腕とで、私を囲い込むように抱きしめた。顔に直接触れる肌から、彼の匂いが強く立ちのぼる。一瞬、もう一度目を閉じてその匂いに埋もれようかと思ったけど、やめた。
「気になるよ、言って。聞くから。でないと寝られない」
彼の腕がぴくりと反応した。その後に続く沈黙に訝しい思いが湧き起こる。彼が、言いかけたことを躊躇するなんて珍しい。3ヶ月前に初めてこうなってから、お互い言いたいことは全部言い合える関係になったと思っている。少なくとも私はそうしているし、彼もそのはずだ。それ以前から、一部のことを除けば隠し事をされた覚えはない。
なんなんだろう、とちょっと不安を覚えた頃、やっと「あのさ」と彼が口を開いた。
「来月、サークルの試合があるんだけど」
「知ってるよ。レギュラーで出るんでしょ」
彼は入学直後からフットサルのサークルに所属している。中学高校ではサッカー部で、その頃もやはりレギュラーになれる実力の持ち主だった。学内の体育会にある部に入らなかったのは、本人曰く『大学でまで部活に明け暮れるのはちょっと嫌だから』らしい。
と言いながら、並のサークルより練習量の多そうな今の活動を、彼はけっこう楽しそうにこなしているように見える。やっぱり基本的には体育会系なんだね、とからかうように言ったら、自覚があるのか苦笑していた。
「だから応援に行くって言ったよ。それがどうかしたの」
「いや、試合はいいんだけどーー明後日、部員同士での模擬試合兼ねた練習があるんだ。それ見に来ない?」
「え?」
付き合って1年半、試合は何回か観に行っているけど、練習は見たことがない。部外者は基本的に入れないというから、最初に尋ねた時以外に連れていけとせがんだことはないし、もちろん彼も誘いはしなかった。
だから当然、不可解に思った。
「どうして? 部外者は駄目なんじゃ」
「試験前にマネージャーの2年が辞めてさ。今、3年が1人いるだけなんだ。春に新人が入ってくるまでは頑張るって言ってるけど、でもやっぱ大変みたいで。3年だから就活も卒論もあるし。だから、雑用を手伝ってくれるだけでも助かるからって」
「……別にいいけど、なんで私なの。なんかご指名っぽいけど」
「実はそう。誰か手伝えそうな人知らないかって聞かれた時につい、友美が元女子マネだったこと教えちゃって。そしたら絶対連れてこいって言われて」
彼の口調はひどくばつが悪そうだった。確かに私は中高と部活でマネージャーをしていた、けど。
「でもソフトボールだよ、サッカーじゃなくて。フットサルだって、ルールはどうにか知ってるけど詳しくはないし。そんなんでいいの?」
「いいって。必要なことは教えるし、そんなに難しいことはさせないから、気軽に来てくれればいいからって」
ちょっと考えた。裏方的な仕事は嫌いじゃないし、私が入っている文学研究サークルは土日の活動はない。研究と言っても実質的な活動は読んだ本の批評会が主という、のんびりした本好きの集まりだ。
だから、私はまったく問題ないのだけど。
「私は、行ってもいいけどーーなんか祐紀、気が進まなさそうじゃない?」
唯一気になるところを尋ねてみると、彼はあからさまに詰まった。再びの沈黙ののち。
「……いやその。来てくれれば助かるとは俺も思うし、見に来てくれたら嬉しい。けど、なんか事後承諾みたいで悪くて」
「ん、まあそうかな。でも別に」
「それに、先輩ちょっと癖のある人だから」
「先輩って、マネージャーの人?」
「そう、1回会ってなかったっけ、去年」
言われて考えて、思い出した。2年になったかならないかの頃、学内で彼と一緒にいるところを見かけたことがある。背が高くて、わりと綺麗な人だった。
「ああ、うん、会ってるっていうか見てる。変わった人には見えなかったけど」
「まあ、見た目は。けどけっこう気が強くて強引だし、言うこと唐突だから……ちょっと気になるんだけど」
妙に心配そうな彼の声が、頭の上と、耳のすぐ横の喉から同時に響いてくる。彼は普段わりと冷静で公平な人だから、人を批判的に評することも少ない。その彼がこんなふうに言うのだから「先輩」は確かにちょっと癖の強い人なのだろう。だけど。
「んー、会ってみないとわかんないけど、たぶん大丈夫だと思うよ。高校のソフト部だっていろんな人いたもの。幹部会だって」
そこで言葉を切ったのは、ある相手を思い出したから。ソフト部の同期の部長で、当時は彼と付き合っていた女子。彼女も、悪い人ではないけど特徴ある性質の持ち主だった。
そういやそうだな、と返す声が笑いながらも若干苦々しかったのは、彼もあの子のことを思い浮かべたのかもしれない。お互い、彼女に関してこだわりはないけれど、こんな時にわざわざ口に出すほど無粋でもない。
「それに、もう約束しちゃってるんでしょ? だったら行かなきゃ。期待させて裏切ったら申し訳ないもの、行くよ」
「……そっか、悪いな」
「全然。練習試合見るの楽しみ」
本当にそう思ったからそのまま言うと、彼は予想以上に喜んだ様子で、私に回した両腕に力を込める。――と、片方の手が背中を滑り、腰まで下りてきた。確信的に引き寄せる動きに慌てる。
「ちょっ……なに」
「もっかいしていい?」
「え、――――」
初めてして以降、それまで不必要に遠慮していた反動なのか、時々彼は私にやたらと触りたがる。人前でべたべたすることはないけど、二人きりだとくっつきたがるし、間隔はその時によるものの、平均するとたぶん、週2回ぐらいはしていると思う。
そういう人だとは思っていなかったから、いろんな意味で今でも意外だ。……その誘いを一度も断ったことのない自分も、どうかという気がするけど。
しかしながら1日に2回はさすがに経験がなくて、反射的にうろたえた。
「……もう充分したじゃない」
「嫌?」
「嫌とかじゃなくて、――なんで?」
「んー……なんか今、急に物足りない気がしてきて。久しぶりだからかな」
2週間の後期試験と「試験に代わるレポート」の提出期間は、今日終わったところだ。期間中はデートも早めに切り上げたりしていたから、ちょっと間が空いたのは確かだけど――どう答えたものかと考えた時、耳を軽く噛まれた。熱い息を感じて、体が震える。
「ゆう……っ」
「好きだよ、友美」
耳の後ろから首筋へ滑る唇のささやきに、私の躊躇は一瞬で溶ける――溶かされてしまう。体の奥で、一度は治まった熱がまた息を吹き返した。
私も、とうわごとのように答えると、横向きだった体が仰向けにされ、彼が覆い被さってくる。お互いの体熱でさらに強まった彼の匂いに、今度こそ私は埋もれた。
夢うつつの中、名前を呼ばれた気がした。
今の状況で呼ぶのは一人しかいないから、軽く頭を動かして「……ん、なに?」と反応する。自分で思っていたよりも寝ぼけた声に、即座に焦った声が返された。
「あ、ごめん。寝てた?」
「ううん、ちょっと、うとうとしてただけ。で、なに?」
「――いや、いいよ。朝になってからで」
そう言って、枕にしてくれていた腕と反対の腕とで、私を囲い込むように抱きしめた。顔に直接触れる肌から、彼の匂いが強く立ちのぼる。一瞬、もう一度目を閉じてその匂いに埋もれようかと思ったけど、やめた。
「気になるよ、言って。聞くから。でないと寝られない」
彼の腕がぴくりと反応した。その後に続く沈黙に訝しい思いが湧き起こる。彼が、言いかけたことを躊躇するなんて珍しい。3ヶ月前に初めてこうなってから、お互い言いたいことは全部言い合える関係になったと思っている。少なくとも私はそうしているし、彼もそのはずだ。それ以前から、一部のことを除けば隠し事をされた覚えはない。
なんなんだろう、とちょっと不安を覚えた頃、やっと「あのさ」と彼が口を開いた。
「来月、サークルの試合があるんだけど」
「知ってるよ。レギュラーで出るんでしょ」
彼は入学直後からフットサルのサークルに所属している。中学高校ではサッカー部で、その頃もやはりレギュラーになれる実力の持ち主だった。学内の体育会にある部に入らなかったのは、本人曰く『大学でまで部活に明け暮れるのはちょっと嫌だから』らしい。
と言いながら、並のサークルより練習量の多そうな今の活動を、彼はけっこう楽しそうにこなしているように見える。やっぱり基本的には体育会系なんだね、とからかうように言ったら、自覚があるのか苦笑していた。
「だから応援に行くって言ったよ。それがどうかしたの」
「いや、試合はいいんだけどーー明後日、部員同士での模擬試合兼ねた練習があるんだ。それ見に来ない?」
「え?」
付き合って1年半、試合は何回か観に行っているけど、練習は見たことがない。部外者は基本的に入れないというから、最初に尋ねた時以外に連れていけとせがんだことはないし、もちろん彼も誘いはしなかった。
だから当然、不可解に思った。
「どうして? 部外者は駄目なんじゃ」
「試験前にマネージャーの2年が辞めてさ。今、3年が1人いるだけなんだ。春に新人が入ってくるまでは頑張るって言ってるけど、でもやっぱ大変みたいで。3年だから就活も卒論もあるし。だから、雑用を手伝ってくれるだけでも助かるからって」
「……別にいいけど、なんで私なの。なんかご指名っぽいけど」
「実はそう。誰か手伝えそうな人知らないかって聞かれた時につい、友美が元女子マネだったこと教えちゃって。そしたら絶対連れてこいって言われて」
彼の口調はひどくばつが悪そうだった。確かに私は中高と部活でマネージャーをしていた、けど。
「でもソフトボールだよ、サッカーじゃなくて。フットサルだって、ルールはどうにか知ってるけど詳しくはないし。そんなんでいいの?」
「いいって。必要なことは教えるし、そんなに難しいことはさせないから、気軽に来てくれればいいからって」
ちょっと考えた。裏方的な仕事は嫌いじゃないし、私が入っている文学研究サークルは土日の活動はない。研究と言っても実質的な活動は読んだ本の批評会が主という、のんびりした本好きの集まりだ。
だから、私はまったく問題ないのだけど。
「私は、行ってもいいけどーーなんか祐紀、気が進まなさそうじゃない?」
唯一気になるところを尋ねてみると、彼はあからさまに詰まった。再びの沈黙ののち。
「……いやその。来てくれれば助かるとは俺も思うし、見に来てくれたら嬉しい。けど、なんか事後承諾みたいで悪くて」
「ん、まあそうかな。でも別に」
「それに、先輩ちょっと癖のある人だから」
「先輩って、マネージャーの人?」
「そう、1回会ってなかったっけ、去年」
言われて考えて、思い出した。2年になったかならないかの頃、学内で彼と一緒にいるところを見かけたことがある。背が高くて、わりと綺麗な人だった。
「ああ、うん、会ってるっていうか見てる。変わった人には見えなかったけど」
「まあ、見た目は。けどけっこう気が強くて強引だし、言うこと唐突だから……ちょっと気になるんだけど」
妙に心配そうな彼の声が、頭の上と、耳のすぐ横の喉から同時に響いてくる。彼は普段わりと冷静で公平な人だから、人を批判的に評することも少ない。その彼がこんなふうに言うのだから「先輩」は確かにちょっと癖の強い人なのだろう。だけど。
「んー、会ってみないとわかんないけど、たぶん大丈夫だと思うよ。高校のソフト部だっていろんな人いたもの。幹部会だって」
そこで言葉を切ったのは、ある相手を思い出したから。ソフト部の同期の部長で、当時は彼と付き合っていた女子。彼女も、悪い人ではないけど特徴ある性質の持ち主だった。
そういやそうだな、と返す声が笑いながらも若干苦々しかったのは、彼もあの子のことを思い浮かべたのかもしれない。お互い、彼女に関してこだわりはないけれど、こんな時にわざわざ口に出すほど無粋でもない。
「それに、もう約束しちゃってるんでしょ? だったら行かなきゃ。期待させて裏切ったら申し訳ないもの、行くよ」
「……そっか、悪いな」
「全然。練習試合見るの楽しみ」
本当にそう思ったからそのまま言うと、彼は予想以上に喜んだ様子で、私に回した両腕に力を込める。――と、片方の手が背中を滑り、腰まで下りてきた。確信的に引き寄せる動きに慌てる。
「ちょっ……なに」
「もっかいしていい?」
「え、――――」
初めてして以降、それまで不必要に遠慮していた反動なのか、時々彼は私にやたらと触りたがる。人前でべたべたすることはないけど、二人きりだとくっつきたがるし、間隔はその時によるものの、平均するとたぶん、週2回ぐらいはしていると思う。
そういう人だとは思っていなかったから、いろんな意味で今でも意外だ。……その誘いを一度も断ったことのない自分も、どうかという気がするけど。
しかしながら1日に2回はさすがに経験がなくて、反射的にうろたえた。
「……もう充分したじゃない」
「嫌?」
「嫌とかじゃなくて、――なんで?」
「んー……なんか今、急に物足りない気がしてきて。久しぶりだからかな」
2週間の後期試験と「試験に代わるレポート」の提出期間は、今日終わったところだ。期間中はデートも早めに切り上げたりしていたから、ちょっと間が空いたのは確かだけど――どう答えたものかと考えた時、耳を軽く噛まれた。熱い息を感じて、体が震える。
「ゆう……っ」
「好きだよ、友美」
耳の後ろから首筋へ滑る唇のささやきに、私の躊躇は一瞬で溶ける――溶かされてしまう。体の奥で、一度は治まった熱がまた息を吹き返した。
私も、とうわごとのように答えると、横向きだった体が仰向けにされ、彼が覆い被さってくる。お互いの体熱でさらに強まった彼の匂いに、今度こそ私は埋もれた。
作品名:evergreen/エバーグリーン 作家名:まつやちかこ