むべやまかぜを
「小手先で何かしようとしてもだめ。龍川君、あなたが幸せにならないと」
「うん。そーそー。幸せは大事だよ」
丸山花世はテキトーに茶々を入れて、龍川の前におかれたエイヒレを勝手に奪ってしゃぶっている。
「虚飾を愛する人はいない。龍川君。飾られた万言の台詞は、幸せな人間の本心の一言に負けるのよ」
女主人ははっきりと言い切った。それは龍川にとってはそれまでの人生を覆す言葉。努力に努力を重ね、苦悩に苦悩を重ねて……結局全ては無駄だった!
「幸せ、か……」
若者はぽつりと言った。
「……難しいですね。それは。幸せになる……うん。それは、文章を直すよりもよっぽど難しい……僕には、本当に難しいですね。僕は……」
途切れ途切れに若者はつぶやいた。若い作家は何かに思いをめぐらせている。
「そう言っている私も、本当に自分が幸せかどうかは分からないのだけれど。ただ、そう思い込んでいるだけなのかも。花世は……そうね。花世は幸せ?」
女主人は若者のことを傷つけないようにそのように言い、それを受けて小娘は言った。
「あー? うん。幸せなんじゃない? 不幸じゃないから」
その能天気さ。明るさ。意味も無ければ根拠も無い自分に対する信頼感。それが自走できる機関付きのスクリュー船の所以。ただ、百万馬力のエンジンを抱えた丸山花世は、困ったことに舵がないので、どこにたどり着くのか誰にも分からないのだ。
「結婚詐欺師の言葉よりも、普通のニーちゃんのプロポーズのほうが気が利いてるってことだよね。たっつんも、結婚詐欺師にならないほうがいいよ。女泣かせる奴、まともな死に方しないからさ」
少女は適当に言った。それを聞く若者は何事かを深く考えている。
「それよりもさ、たっつん、ノルマ、ちゃんとやってよ! もう時間押してんだからさ!」
丸山花世は最後のエイヒレを奪うと口の中に放り込んだ。龍川は、なんとなく浮かない顔をしている。
ビール瓶には水滴が浮いている。
地上はまだ雨が降っているのか。
パソコン画面を見ながらキーボードを叩く。
「よし……終わった……」
丸山花世は頷いた。