一千の夜と
3章 こころの鍵
一千夜の車は、すんなりと育成校の駐車場を出た。
あんなに強固な塀の中を、すんなりと。
学校行事以外で外に出るのは初めてだったので、志野は思わず窓に張り付く。
「そんなんじゃ、うちに来た後が大変だな」
そんな志野の横から、随分と弾んだ声が聞えた。
「そうだ、えっと……おにいさん?」
「言いにくいと思うから、一千夜でいいよ」
戸惑ったように一千夜を続柄で呼んでみると、その恐々とした声がおかしかったのか、無理しないでね、と返ってくる。
「――一千夜さん。僕、貴方の名前しか知らないんですけど、いろいろ教えてくれますか」
「え、本当に何にも教えてくれてないの、あそこ。俺ものすっごく細かい身上書書いたのに」
「先入観をなくすためだって。会った後は教えてくれるって言ってたから、学校帰ったらもらえるのかな」
「まぁそうか。元木一千夜、25歳独身。仕事は会社員」
「25歳……結構年上だとは思ってましたけど。随分離れてるんですね」
窓からようやく顔を離して、志野は運転している一千夜を見やった。
確かに大人の男の人、といった風情の兄だ。
黒い髪に、自分と同じ目の色を持った人。
自分ではぴんとこないけれど、なんとなく面影が似ているらしい。さっき先生が廊下で言っていた。初めての肉親、という立場の人に志野は無条件に信頼を寄せ始めていた。元々人付き合いが得意な方ではなかったのに、この兄という人の空気は酷く自分を安心させる。
これが血のつながりって奴なのだろうかと、不思議な感覚に囚われている。
いつの間にか車は海沿いを走っていた。
「降りてみる?」
そう聞かれて思わず頷く。駐車場に車を止めて降りてみると、一気に凄い風に襲われた。
「さむっ」
二人してそう呟くと、顔を見合わせて笑う。
この兄という人は本当に居心地がよくて、もうこの人の元に行く事について志野には異議も不安もなかった。
二人でコーヒーを買って、防波堤に並んで座り込む。
そして、志野はどうしても今のうちに聞いておきたかったことを聞くことにした。
「あの、家族は……?」
これだけは、聞きたかった。
なぜ、兄である一千夜が自分を探していたのか。
なぜ、今なのか。
なぜ、両親はこなかったのか。
そんな沢山のなぜを、その一言にこめて。
その問いに、一千夜はスッと、目を細める。
「うん。説明しないと、だな。俺らの両親は、元木尚吾と元木紗枝。二人とも生きていれば50歳」
生きていれば。
その言葉の意味する事くらい、志野でも分かる。
「じゃあ、お父さんと、お母さんは……」
「聞かせてあげたかったな、それ。俺が二十歳のときにね、交通事故で死んだ」
頭を殴られたかのような気分になる。だってでも、会ったこともない人たちなのに。
「両親以外の肉親が探せて引き取れるようになったの、2ヶ月前の法改正からなんだ。何度か掛け合ったんだけどな。だから迎えに来るのが遅くなった、ホントごめんな」
「そんなこと、ない」
そうだった。なんかこないだ掲示板に張り出されてた気がする。
「うちの両親も探そうとしたんだけど、ちょっと母親の方が精神を病んでたから、見つかっても迎え入れに適さないって事で、随分と早いうちに蹴られてた。兄弟がいるってずっと前から聞かされてたし、母親は精神的に耐えられなかったけど、父親は随分法改正運動に参加してたよ」
詳しくは冬休みに来た時にでも見せるよ、と一千夜は苦笑した。
「――両親が探したくても、駄目な場合もあるの?」
それは、初耳だった。
「あるよ。金銭面、健康面、そして精神面。健康診断にカウンセリング。それをクリアしてようやく名簿を見せてもらえる」
酷い話だ、と志野は初めて思った。自分が不幸だなんて思ったことは一度もなかった。制度に関しても不満を唱えた事などなかった。
「うちの母親はちょっと身体に問題があって、俺を生む前に2人、臨月で死産してて。俺の名前、一千の夜って書くんだけど。十月十日の3人分って意味なんだと。……重いよなぁ。志野は2期だったっけ?その頃はまだそれこそ赤紙状態で強制だった頃だから。……自分の子供なのに手元にいないってことで、ちょっと心が弱って薬を飲んでいたっぽいんだ。ようやく探せるって法律になって探そうとしたら、その服薬が原因でアウトだった。だから、志野はちゃんとうちの両親から愛されていたよ」
ずっと、愛されて探そうとして。それでも会えなくて。
気づいた時には、頬を涙が伝っていた。
自分が気づくと同時に隣にいた兄も気づいたらしく、熱くなった目を肩口に押し付けられるようにして抱きしめられた。
「本当にごめんな。これから沢山一緒にいよう」
ごめんなんていらない。だってきっと誰も悪くない。
ただ諦めずに探してくれた家族がいた。
その事実だけで胸が一杯で、幸せになれた。
ずっと自分は感情の起伏が少ない、冷たい人間だとばかり思ってた。
心の鍵がひとつ開いてなかっただけだったんだ。
ようやく涙が止まった頃には、西の空がうっすら赤く染まり始めていた。
二人で冷えた身体が暖まるまで停車した車の中にいて、育成校に着いた時にはもうあたりは真っ暗になっていた。
「とりあえず、終業式の日にまた迎えに来るよ」
「うん、まってる」
照れくさそうに、名残惜しそうに笑いながら一千夜が志野の頭を撫でる。
志野も同じく笑ってそう返した。
あぁどうしよう。
楽しみすぎて、いても立ってもいられなくなりそうだ。
(続く)
遅くなりました。
志野は本当は感情豊かな子でした。