使用人一族の娘
坊ちゃんと私が? 同じ高校?
(……なんだそれ。聞いてないぞ)
私が通っている高校はそんなに大きい学校ではなく、各学年三クラスずつしか存在しない。一クラスにつき四十人、男女比は一対一だから、一学年で男女各六十人ずつ。勿論多少の誤差はあるが、どの学年どのクラスもその人数から大きく逸脱はしていない。つまり、この高見沢家の坊ちゃんは、そのたった六十人の中に存在するということなのだ。
(……聞いて、ないぞぉ)
思わず目を丸くする。うっかり声に出なかったのは救いだが、だからといって聞き流すことの出来る話でもない。確かに十六歳になるまで高見沢家の内情に関しては何も聞かせてはもらえなかったが、せめて今後お仕えすることになる張本人が同じ学校にいるということくらい教えてくれてもいいだろうに。このしきたりには謎な点があまりにも多すぎる。
(私が必要以上に男子に興味もたないのも悪いんだけどさぁ……)
話をする男子以外の名前も顔も覚えないし、興味ももたない。友人たちに変わってると指摘されるとおり、確かに私の性分は女子高生として適当とはいえないだろう。
とはいったものの。
(興味ないものはないんだから仕方ないじゃん……)
興味がないものに対し、無理して興味を抱く必要はないだろう、と思う。だからこそ私は今日までそれを貫いてきた。しかし、まさかそれがこんなところで弊害をもたらそうとは。
私の隠れた動揺をよそに、初子さまと俊也さま、そして春江さんの三人はなにやら楽しそうに談笑している。無論、春江さんが全力で敬語を使っている以上、友人同士の会話のような談笑とはいかないが。
「譲さんと優也も、学友としても上手くやっていたようですものね。きっと繭さんと周也もそうなることでしょう」
ころころときれいに笑う初子さまを見ながら、私は内心でホントかいな、と呟く。しかし勿論、それを表情に出すような愚行は犯さない。長い会話の合間にようやくあげた顔を何とか笑顔に保ちながら、私は黙ったまま三人の会話を見守っていた。
「そういえば、周也は何処に? 今日は早く帰ってきなさいと言ってあったんだけど」
会話の流れを断ち切ることなく辺りを見回すように首を動かす俊也さまの口から持ち出されたその言葉に、初子さまが「そういえばそうね」と答えた。浮かべる表情にはちょっとした焦りが見えるが、それは単に坊ちゃんを忘れていたことに対する焦りだろう。
「ごめんなさいね、せっかく繭さんがいらして下さったというのに。周也ったら。今呼びますわ」
手で口元を軽くおさえながら言う初子さまに、私はとんでもございませんという意をこめて素早く首を振った。
ていうか私結局まだ自己紹介も何もしてないんだけど、いいのかな。それは坊ちゃんがいらっしゃってからやった方がいいのかな。
「私がお呼びします。坊ちゃんはお部屋でしょうか?」
「ええ、きっと。お願いね、春江さん」
私がもたもたと悩んでいる間に、春江さんはすくっと立ち上がると襖を開けて部屋を出て行った。いい加減慣れてきたが、その声色や立ち振る舞いがあまりにも母さんとかけ離れすぎていて、違和感ばかりが先行する。これに慣れるのも仕事のうちだ、なんて考えながら、音にならないよう小さく息を吐いた。
「繭さん」
「は、はいっ!」
突然、名前を呼ばれた。しかも、慌ててそれに返した声は、自分でもしまったと思うくらいにひっくり返っていた。
(は……恥ずかしい……!)
案の定、今の私の声に驚いたのか、私を呼んだ初子さまも、その傍らに座る俊也さまも、くすくすと肩を震わせながら笑っている。
「そう緊張しなくてかまいませんよ。今日から繭さんもこの家に通って頂くことになるんですから」
「は、はあ……」
未だ肩を震わせる初子さまの言葉に、背中に汗をにじませる私が返すことができたのは、おざなりにも程がある返事だけ。春江さんのように歯切れのよい声を返すことが出来る日は遠そうだ、と我ながら凹んだ。
「なんにせよ、繭さんが明るそうな女の子で安心しました。周也は大人しい子だから、繭さんには退屈かもしれませんけど、仲良くしてやって下さいね」
「いえ、そ、そんな……」
「本当に大人しい子なんですよ。優也とはそれなりに気が合うみたいなんですけどね。だから、あの子についてくれる子が明るい子だったらいいのにって思っていたの」
だから嬉しいわ、と言って笑う初子さまの表情は本当に嬉しそうで、私はなんと言っていいのか分からなくなった。ただでさえ緊張で言葉が紡げなくなっているというのに、更に返答に困るようなことを言われては、普段より瞬きの回数を増やしながら場を保つ以外できることが何もない。
(……だって私は、坊ちゃんが同じ高校ってことも知らなかったのに。ていうか正直、坊ちゃんの名前だって、ついさっきの会話で知ったのに。そもそも、坊ちゃんが根暗でも別に関係ないし、なんて考えてたのに)
ぴりりと緊張を孕んだ空気の中に落とされた、初子さまの微かな優しさ。それが私の体をちくちくと突き刺して、いよいよ私はなんて答えれば良いのか分からなかった。
高見沢家の使用人になる、というしきたりを軽く見たことはないつもりだった。それがたとえ、十六になるまで高見沢家がどんな家なのか全く教えてもらえないような謎のしきたりだったとしても、女子高生としての平凡な幸せとかそういうもの全てを返上して使用人になるための特訓をつむ必要があったとしても、私は今までそれを「嫌だ」と思ったことがなかったのだ。勿論、そう思わせないために祖父の「一条家たるもの精神論」があったのだろうが、教育による刷り込みを差し引いたとしても、私はこの一族が持つしきたりに反抗しようとしたことがなかった。
しかしそれは、あくまで使用人としての心構えの話であって、その中に仕えるべき主と仲良くなるだとか、そういう話は一切含まれていないのだ。
(……私、ちゃんと出来るのかなぁ?)
ただ仕事をこなすだけの使用人ではなく、このひとたちに望まれている使用人として。それは、正直に言って今まで少しも想定していなかったことだった。
「失礼します。周也坊ちゃんをお連れ致しました」
耳に届いたのは、母である春江さんの声。その言葉に、私は弾かれたように体を反転させ、襖へと視線を向けた。体を突き刺すような緊張が全身を駆け巡った。
不安も緊張も混乱も、未だ私の脳内を席巻している。しかし、当然のことながら、時間は私を待ってはくれないのだ。
(……ええい、どうにかなる。そう思うしかない!)
だって、一条家の人間は、例外なく皆この道を通ってきているはずなんだから。兄や母や祖父や祖母に出来て、私に出来ないはずがない、……と思いたい。
安堵と緊張を繰り返した私の心臓は、今や最高潮に鼓動を速めていた。離れて座っているはずの初子さまや俊也さまの耳にまで届いてしまうのではないかというほどの音量で打ち鳴らされる脈動の音を聞いて、自分が今どれだけ緊張しているのかを思い知らされた。
――襖が、ゆっくりと開く。春江さんのしなやかな指が見えて、それから徐々に襖の面積が小さくなっていった。
その人は、膝をついた春江さんのすぐ後ろに立っていた。