使用人一族の娘
祖父の精神論の甲斐あってか、私の心臓は鼓動を強く打ち鳴らしながらも、なんとか平静を保っていた。たとえ、教えられたとおり音をたてないで歩く間に覗き見る部屋や庭が、今まで一度も見たことないほど豪華絢爛なものであっても、だ。まったく、教育というものは恐ろしい。
「さあ、着いた。準備はいい?」
足を止めた部屋の前で母さんが振り返る。その表情には、やはり昨晩のような動揺の色はない。今ここに立っているのは、何代も前から続いている高見沢家への忠義を身に纏った使用人だ。
母さんの両目を見る。揺れることなく私を射る母さんの目に一瞬圧倒されそうになったが、ここで負けてなんかいられない。まだ十六歳といえど、私だってこれからこの家の使用人の一人として働くことになるのだから。
(確かに、こんなしきたり、学校の友達が理解できるわけないよね。だって、私もなんて説明していいか分からないもん)
しかし、事実として、私は今この家の使用人になるべくここに立っている。級友たちからどれだけ疑問符を浮かべられようと、代々続くしきたりについて私が上手く説明できなかろうと、私が今ここに立っている事実を否定できるわけがない。する理由もない。
――だって私は、一条家の娘として、高見沢家の使用人になるために今まで育てられてきたんだもん。
母さんの目を見て、小さく頷く。緊張は未だ解けないままだが、適度な緊張は悪いものではない。平常よりも速い鼓動を受け入れながら、私は母が腰を折るにあわせてその場に膝をついた。
「失礼します。繭を連れて参りました」
母さん――いや、春江さんの声が、いつもよりも心地良い緊張を孕んで私の耳に届いた。たぶん、これが春江さんの使用人としての声なんだろう。オンとオフの使い分けを悪いことだとは思わないから、初めて聞くその声に少しばかり驚きはしたものの、私はすぐにそれを受け入れた。
「どうぞ」
襖の奥から声が聞こえた。女性の声だった。若い女性のものではなかったから、おそらく現在この家の家長である初子さまの声に違いない。御年七十二になられると聞いていたが、それにしては随分と芯の通った声だと思った。
春江さんが襖に手をかける。体中をめぐる緊張の中で、針が刺さったような痛みが走った。局地的な緊張とでもいうべきか、ついにきたこの瞬間に、私は周囲に聞こえないようごくりと喉を鳴らした。
「お待ちしていましたよ、春江さん。繭さんもようこそ、高見沢家へ」
襖を開けた奥に広がっていたのは、――ちょっとこれは何処の映画のセットですか? とでも聞きたくなるほど、だだっ広い且つ豪勢な部屋だった。
やわらかそうな柿渋染の座布団や漆塗りの座卓は、見ただけでそれが一般家庭には手の届かない高級なものだと分かる。卓上に乗せられた湯のみや急須も、ぱっと見ただけでは分からないがきっと相応の価値をもった一品に違いない。そして何よりこの部屋は、――手入れの行き届いた畳が数えるのも億劫になるほど何枚も敷き詰められていた。つまり、何畳なのかさえ分からないほど、広いということだ。
私はとにかく驚きを顔に出さないよう必死だった。とんでもない家だとは既に理解したつもりでいたが、この部屋は理解の範疇を超えていたのだ。なんだこれ、と口に出さなかった自分をちょっと褒めてやりたいくらいには。
(いったい何をやるとこんな財が築けるのさ)
高見沢家の商売の詳細を知らない私には、この家を築くための礎の出所がまったく分からない。使用人としてそれもどうかと思うが、十六になるまでは教えてもらえないのだから仕方ないだろう。
春江さんに促され、部屋の中に足を踏み入れる。音をたてないよう歩いて、教えられたとおりに襖を閉めて、春江さんが腰をおろした斜め後ろに膝をついた。そこまで来てようやく私は、その部屋の中でゆるやかに腰をおろしている人物――初子さまと俊也さまに目を向けた。
初子さまは、なんというか、想像通りの女性だった。というのは、高見沢家という家の家長と呼ばれているくらいだから、きっとぴんと背筋の伸びたしっかりとした女性なんだろうなぁ、という勝手なイメージに基づく想像だ。しかし、その想像は見事ぴったりと当てはまっていたようで、染めているのか白髪一本ないきれいな黒髪をきっちりと結わえ、高そうな着物に身を包んだ初子さまは、ぴいんと伸びた背中を崩すことなくその場に座していた。それはもう、存在そのものが緊張を振りまきそうなほど美しい姿勢で。
対して、初子さまの隣に座っている俊也さまは、初子さまとは違い、どこか穏やかな印象をもった方だった。背筋がぴんと張っているのは初子さまと変わらないのだが、少しだけ跳ねた髪や、ほんのりと持ち上げられた口元が俊也さまのイメージを柔軟なものに見せているのだろう。きっちりと糊のきいたシャツを身に着けているため、清潔な印象を失うことはないが、俊也さま本人の気性は初子さまのような緊張感を孕んだものではなさそうだった。
「この度は、お忙しい中お時間を頂戴し、誠に有難うございます」
微かに呆けていた私の時間を元に戻したのは春江さんだった。手を畳の上につき、深々と頭を下げる春江さんを見て、私も慌ててそれにならう。畳に顔を伏せたことで、畳特有の青いにおいがつんと鼻腔を突いた。
「春江さんのお嬢さんが高見沢家にあがる日ですもの、当然のことですよ」
そう言う初子さまの声には、棘こそないものの、やはりぴんと張った糸のような緊張が含まれていた。私は声ひとつあげることの出来ないまま、春江さんの「恐縮にございます」という言葉を聞いた。恐縮にございますなんて、文面で見たことはあっても、言葉として言われているのを聞いたのは初めてだった。
「春江さんのお嬢さんがもう十六歳なんて。春江さんが来た日がついこの間に感じるのに、時間の流れのはやいこと」
「それだけ歳を取ったってことですよ、お母さん」
「まぁ、嫌なことを言いますね、俊也さん。その分だけお前も歳を取っていることを忘れているのかしら」
「私はちゃんと歳を取ったと自覚していますよ。なんせ、あの小さかった周也が十六歳になるくらいですからね」
畳に伏せた顔を上げることができないまま、初子さまと俊也さまの会話が進んでいく。特に私が何かを言う必要がありそうな会話でもなかったので、春江さんが顔をあげるに合わせて私も顔をあげようとそちらに意識を向けていたのだが、会話途中に出てきた「周也」という名前に、思わず私はほんの少しだけ顔を持ち上げた。
周也って、誰それ。いや、話の流れ的に、まさかと思うけど――。
「そうね、周也ももう十六歳になりますものね。――そういえば、周也の通っている高校は、繭さんの高校と同じ学校ではなかったかしら」
初子さまのその言葉に、私はつい「へ?」という間抜けにもほどがある声をあげそうになった。だって、今、――え、なんて仰いました?
「はい、繭は周也坊ちゃんと同じ高校に通っております。譲と優也さまの母校でございます」
私があげそうになった奇声は、春江さんが続けてくれた言葉によってなんとか未遂に終わった。間抜けな奇声を無事飲み込めたことに安堵しながらも、私は、なんというか――それどころじゃなかった。