定義
動物の定義
私の実家の犬には「ハナ」という名前があった。だが私はどうしても「ハナ」と呼べずに「犬」と呼んでいた。自然との流動的な親密さに耐えられなかったのだ。
「ハナ」という言葉は他人の所有する暗がりのようなものであり、家族が犬を「ハナ」と呼んでも、私はすぐさまその呼称の無垢なかけらを自分の寒い所有地から締め出し、発話の衝動の手の触れぬ所へと無関心に吊し上げるのだった。ハナを見ても「ハナ」という言葉、その蔓先すら浮かばない。「犬」という言葉とそのだらしなく広がった意味の林が浮かぶ。対象と言葉がねじれ合っていて、言葉がこのまま無限に現れ間違うのではないかとすら思われた。
「ポカホンタス」を観た。インディアンにとっては、自然の事物はすべて生命と心と名前を持っていたらしい。それを観て、私の感受性はいくつもの角ばった木片へと分解され、しばらく設計者の視線に濡らされた後、再び組み合わされて脈動と予期を取り戻した。
とりあえず庭の黒松の木に「タケシ」と名付けてみた。タケシの、力を集合させた枝の張り具合は、私に彼の跳躍する思想を伝え、空気と光度を交換している木肌の荒れは、私に彼の名前にまつわる記憶を開示し、聴覚を冴え立たせている松葉たちは、私に彼の細胞同士の挨拶の余韻を届けた。
私はハナを「ハナ」と呼んでみた。呼べた。ハナは尻尾を振って、彼女の意識の空模様を私に届けた。
古い写真が一枚ある。そこには彼女とその友人が写っていた。友人は山羊の子供を抱いていた。二人とも十歳くらいだった。その友人の図は、彼女に記憶の遠近のきざはしをひらめかせ、彼女にもはや届かない友情の残響を集めさせ、彼女を物体のように併存する現在と過去との挟撃に刻ませた。彼女の家では昔山羊を飼っていて、その仔を業者に売ることがあったのだ。
その友人は最近死んだ。乳癌だった。四十歳。ずっと音信不通だったが彼女は線香をあげに行った。そのときアルバムの中から見つけ出したのがこの写真である。
「この写真から、私の命も彼女の命も山羊の命も、それぞれ別々に、因果と因果のこすれる緯度での自由を浴びたり、痛苦と慰撫との楕円軌道から聳え立ったり、世界の底へと潜り込んで天蓋の裏にある星の墓標を荒らしたりしたのだろう。私と彼女の命はこの山羊によって連結され比較され分離された。この山羊はここから向かった先で、私たちの圧縮された時間を発信し続け、私たちの死んだ差異を復元し続け、私たちの更新された空間を色濃く組み換え続けた。」
彼女は写真を机の上に置くと、十歳に戻った気持ちで、唱歌を歌い始めた。歌は途中で涙によって中断された。