ウブメ橋
その日が、やってきた。
河川敷に出店が並び、浴衣姿の老若男女が提灯を片手に練り歩く中、僕と高尾は喧騒を離れ、上流に向けて歩いていた。
橋に近づくにしたがい、僕の背中を冷や汗が流れ落ちる。
「寒いか?」と尋ねてくる高尾に「ああ」と返す。
あの独特の耳鳴りと悪寒が止まらない。
「高尾。赤ん坊の泣き声がする」
低い草を蹴飛ばし、渇いた地面を踏みしめ、ウブメ橋の下で足を止める。
すぐ側でちゃぽんと魚が跳ねる音が聞こえた。
今日も熱帯夜になりそうだというのに、半袖のTシャツから伸びる僕の両腕は鳥肌が立っている。
じわりと汗の滲む首筋は冷たい。
怖ろしいほどに静かだ。
聞こえてくる音は赤ん坊の泣き声と僕の荒い息遣いくらいだ。
闇の向こうからは白い影が近寄って来る。歩いてではない。おそらく浮いて。真っ直ぐ、真っ直ぐ僕らの方へと移動してくる。
髪の長い細身の女性だ。薄汚れて黄ばんだ着物の下半身は赤黒く汚れている。
死んでもなおこの女性は子供を産んだのだろうか。
彼女の腕の中には布に包まれた、彼女の赤ん坊が大事そうに抱かれている。
彼女は「抱いてください。この子を抱いてください」と繰り返し繰り返し呟き、赤ん坊を僕へと押し付けてくる。
濡れた黒い髪の隙間から血走った目が覗いた。
心臓が凍りつく。
ここに来て、僕は目で高尾に助けを求めた。
しかし、高尾は笑ってこう言った。
「さあ、抱いてやれよ。渡野近」
違うんだ。
僕が欲しかった言葉ではないんだ。
怖いでも、逃げようでも、なんなら悲鳴でもいいんだ。
常識的な、いたって人間的な反応ならば何だって。
しかし、高尾は穏やかな笑みを浮かべたままで。
僕は失望にも似た気持ちを抱えたまま、渋々両手を差し出し、赤ん坊を受け取る。
泣き喚く赤ん坊からは体温が感じられなかった。
最初は羽のように軽かった赤ん坊は次第に重くなっていく。
投げ出したい。投げ出したいけれど、たとえこの赤ん坊が死んでいたとしても、投げ出すことはできない。
「もし、このまま、このまま……」
このまま赤ん坊を抱え続けていたらどうなる。
そう言おうとして、顔を上げて気づいた。
ウブメと高尾の顔が瓜二つだということに。
血のように赤い唇が弧を描く。
赤ん坊の重みに関節が軋み、視界が歪む。
僕はここで終わるのか。
目の前が真っ暗になりそうになったその時、
「捨てて、渡野近君」
「投げ捨てろ!」
伊藤さんと、男性の声が聞こえた。
辺りを見渡しても見えない。
「高尾君捨てて!赤ちゃん捨てて!」
見えないけれど、伊藤さんが近くで叫んでいる。
伊藤さんの声を掻き消すように腕の中の赤ん坊が一層泣き叫ぶ。
大きく頭を横に振る。
「できません!そんな酷いことできません!」
腕の中の赤ん坊は手がもげそうなほどに重くなっていた。
赤ん坊を投げ捨てるなんて、そんな酷いことはできない。
それが異形のものだとわかっていても。
最期にと赤ん坊の顔を覗きこむ。
火がついたように泣き喚いていた赤ん坊の声が急に止まり、赤ん坊の瞼がゆっくりと開いた。
眼球のあるべき場所には闇しかなかった。
ぽっかり空いた二つの空洞。
赤い唇がつり上がったのを見た瞬間、僕は実にあっけなく渾身の力を込めて赤ん坊を持ち上げた。
「うあああああああああああああああああ」
僕の手から放たれた物体は、ゆるやかな弧を描き、宙を舞った。
頭から水面に落ちていくかと思われた忌まわしき物体は、水面からぬるりと現れた巨大な獣の口の中に吸い込まれ、跡形もなく消え去った。
花火の音が僕の鼓膜を震わせた。
此岸へと戻ってきた僕の肩に温かいものが触れ、はっと我に返る。
「渡野近君、よくやったね」
伊藤麻衣子が優しく僕の肩を抱いていた。
これが生きている人間のぬくもりなのかと実感すると共に、先ほどの赤ん坊の冷たさを思い出し、今さらになってぞっとした。
「高尾は?」
伊藤さんは無言で首を振った。
伊藤さんの向こうに立つ男性を見るとやはり彼も頭を振る。
「消えたんだろう。最初からこの世のものではなかったのだから」
伊藤麻衣子から聞かされた高尾の嘘。
信じたくなかった。
でも、薄々僕は気づいていた。
高尾がこの世のものではないということに。
それでも僕は繰り返す。
「僕の友達だった」
背の高い男性はくしゃりと僕の頭を撫でた。
「君は、高尾君のフルネームを言える?」
いくら考えても高尾の名前は出てこなかった。
僕がクラスメートから無視されているといっても、僕はクラスメートの何人かのフルネームぐらいは覚えている。
なのにあれだけ親しかった高尾の名前だけは出てこない。
「高尾君の所属するクラスは?家族構成は?趣味は?どこに住んでいる?誕生日は?血液型は?」
僕は首を振り続けた。
結局何一つ僕は高尾のことを知らなかった。
それは本当にトモダチと言えるのだろうか。