真実が消えた戦争
言葉を失った。僕がこれだけ衝撃を受けているんだから、アリアは大変ショックだろう。いや、そもそも信じていないかもしれない。
ただ、両親が酷い人物でアリアを捨てて家を出たなら納得のいくことがあるのだ。それはアリアに対する近所の人たちの対応である。例えば両親がアリアの言う通り目の前に困っている人がいたら放って置けない人物であれば、近所の人々はアリアの両親に対して好印象を抱くに違いない。理由は何であれアリアの元から両親が消えれば誰かが助けてあげようとするだろう。ましてやこの家に一人きりにさせることは今が戦争中だからって考えにくい。アリアを直接嫌っていた人物は少ないだろう。しかし迷惑夫婦の娘ならば他人の目も気になる。
信じたくないが、このほうがよっぽど自然だ。
アリアは立ち上がると、ずっと同じ言葉を繰り返していた。壊れた人形のように、何度も、何度も――
「嘘……嘘、嘘、嘘!」
「嘘じゃないわよ。……ああ、そうだ。アリアさあ、本当に両親は自分のことを大切に思ってくれているとでも思っているわけ?」
アリアがその言葉を肯定するのを聞きながら、僕は嫌な予感を感じていた。
――お願いだ。どうか……どうかそれだけは否定しないでくれ……!
「嫌っていたに決まっているでしょ? まあ、支給品が余計にもらえるわけだから存在は好都合だったでしょうね」
瞬間、アリアの何かが崩れる音が聞こえた気がした。アリアの目の焦点が合わなくなっている。
言わないでほしかった。それがたとえこれから先必ず知ることとなる真実であったとしても。せめてアリアがもっともっと強くなってから、大人になってからでも良かったじゃないか……!
声にならない思いを静寂の空間に響き渡らせて、ふと気付く。静か……? アリア! アリアがいない! 先程の少女は薄暗い西の方角をじっと見つめていた。角度を変えて穴を覗くとアリアの背中が遠くに見えた。自分の影を踏みつけるように西へ西へと走っていくアリア。
「ごめん、アリア……わかっているよ。アリアは悪くない。私を励まそうとしてくれたんでしょ? ごめんね、ごめんね……」
そんな言葉が聞こえた気がした。よく聞こえなかった。僕の体は気付けば外へ飛び出して、例の少女の目の前を通りすぎて西へ駆け出す。今、少女に姿を見られただろう。異国の兵隊の服を着た男の姿。しかしそんなことを気にする暇はなく、僕はすでに見えないアリアの背中を追っていった。
随分走った。部屋を出るのが遅くてアリアの姿を見失っていたが、無我夢中で走り続けた。久しぶりに当たる心地よい筈の風さえ走るときの邪魔になって厄介に思えた。最近走っていなかったせいもあって息も切れたが休憩する時間が惜しく、無理やりに体を動かし続けた。
とうとう見つけた。アリアの姿が見つけてからが一番距離を長く感じた気がする。アリアは海を一望できる崖の上にいた。一度も道を曲がらなかったからだろう、目の前の空は反対の空とは明るさも反対である。波の音、風の音。これら二つの音、どちらが大きいかを競っているのだろうか。どちらの音も絶え間なく響き渡る。広い崖の上。いるのは僕たち二人だけである。
「ウィル、来てくれたんだ」
驚いた。というのも、アリアはこちらに顔を向けてもいないのにそう言ったのだ。もちろん僕が声を出したわけでもない。どうしてわかったのだろうか……そう思っていると、アリアは悲しげな笑みを浮かべながら振り向いた。
「ほら。私を追ってくるのはウィルぐらいかなって」
「……」
何か言うべきだったのかも知れない。言葉が思いつかなかった。アリアの笑顔は直視できないほどに胸を締め付けられる笑顔だった。アリアと僕との間の距離がやけに長く感じる。アリアは崖の先にいて、二、三歩下がれば確実に落ちるだろう場所にいた。
「つらいときにね、よくここに来たんだ。ウィルと出会ってから来るのは初めてだね。どう? いい場所でしょ」
ああ、いい場所だ。例えば命を絶ちたいときに。
さすがにそんなことは口に出さなかったが、そう思わざるをえないような場所である。血のにおいがする。それは気のせいかもしれない。そんなことばかり考えていると、波の音すら苦しみから逃れようとする死者の雄叫びに聞こえる。風の音は悪魔の囁きのようだ。
「私、気付いちゃった」
恐怖。アリアの言葉が恐怖であった。次の瞬間壊れてしまうかもしれない。アリアが笑うとむしろ怯えてしまう自分がいる。
「私ね、今までたくさん人を好きになったよ。でもね、私が求められたことって一度もないんだ。私が一方的に求めているだけ」
「そんなこと……」
言葉が詰まってしまった。アリアは今、両親のことで頭が一杯だろう。優しかった父母の笑顔がガラスのように脆く、呆気なく崩れていく。そんなアリアに僕は何と言えばいいだろう。何と言えばまたあの笑顔が見られるだろう。しっかりしろ、自分! 今彼女を救えるのは自分だけじゃないか!
「だから、ね」
今、アリアは笑っているのか、泣いているのか……もうわからない。そうだ、ならば僕はどんな表情をしているだろう。アリアに必死に手を伸ばす僕は。ああ、手を伸ばしてもアリアまで届かない。アリア、アリア――!
「私が今ここで飛び降りたらね、どうなるのかなって」
ああ、わかった。僕が今どんな表情をしているか。簡単だ。顔に手を当てなくたってわかる。
「――馬鹿!」
僕は怒っている。この感じは前にもあった気がする。そうだ、アリアが死のうとしていた僕に言ったような。今なら本当にわかるよ。どうしてアリアが僕に怒ったのかを。
「アリア、前に言ったよね。アリアは僕が必要でずっと側にいてほしいって。それはアリアだけじゃないんだ! 僕だって……僕だってアリアが必要だよ。ずっと僕の側にいてほしい。二人でいたい。その気持ちはアリアだって僕だって同じじゃないか!」
今の僕の声はきっと波より風より大きい声だろう。波も風も一瞬止まったような気がした。そういえば、アリアもあのときこれぐらいのタイミングで泣いていたような気がする。
「アリアはあのとき、僕にわかって欲しかったんだよね? 僕が死ぬこと、それがアリアにとってちっとも幸せなことじゃないって。勘違いしている僕に怒ったんでしょ? だから、今度は僕がアリアに怒るよ」
そのまま歩いた。アリアの隣に立って下の方を眺めてみた。真下は海だ。岸は無く深い海が広がっているらしい。海の上に立っているような錯覚を覚える。アリアは隣で僕の横顔を見ている。
「僕はアリアが好きだ」
これ以上言葉はいらないから。アリアの方を向いて、アリアの返事を待つ。いつのまにかアリアとの距離は短くなっていて。今なら手を伸ばせば届く。きっと僕たちの心の距離もこんな感じだ。
「ありがとう、ありがとう……! 大好きだよ、ウィル!」
泣きながら、笑いながら、アリアは僕の胸に飛び込んできた。僕はそれを受け入れると、温めてあげるように抱きしめた。
「わ、あったかい」
「うん、前に温めてもらったからお返ししないと」
また風が強く吹き付けた。波の音も崖先で聞くからか先程より大きい。お互いの心臓の鼓動を感じながら、そっと目を閉じる。