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24歳の原点

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 僕がそう言うと、先に彼女はすくっ、と立ち上がり、体育座りしている僕に手を差し出した。僕は彼女の右手を掴むと、足を崩し、力を込め、立ち上がった。そして彼女の開いた紺色の傘に彼女と共に入ると、途端に雨が弱くなり、建物の群れの向こうに“虹”が幾つも幾つも架かっているのを見つけた。それらを彼女と見ながら渋谷の街を歩いていると、今まで抱き続けていた疑念や不条理な事柄が、すっ、と頭や心の中から蒸発していくような感覚を受けた。僕はそのことを彼女に話した。すると彼女は笑顔を浮かべ、言葉を何度か口にした後、右手で、僕の左手を握り締めた。
 水浸しの「スクランブル交差点」を通り、雨水が逆流する上りの道玄坂を上りきり、渋谷の街を出て、後ろを振り返ると、其処には潤いを取り戻した大地が、泥塗れになって雨音を鈍らせて僕達の聴覚に届けていた。
 僕と彼女の足は、外界よりも生暖かい泥の中を出たり入ったりを繰り返して前進した。そして、僕と悪魔の想像力の限界である波打ち際の白濁とした波の泡に、柔らかく優しい、しかし冷たい雨が降っていた。
 5分、ちょうど5分。僕は幻想の街を出てから精確に300秒、数え、彼女のカーキ色のタイルの嵌め込まれた実家に着いた。彼女は一旦傘の中から出、右側の車庫の方へ駆けて行き、少しして玄関の鍵を左手にぶら下げて持って来た。
 家の中に入ると、すぐに線香の強い香りが充満していることに気が付いた。玄関マットの隣に、泥で濁ったお湯を張った洗面器とタオルが置かれてあり、それで僕と彼女は足を丹念に綺麗にした。
 居間を抜けて寝室へ向かう途中の和室に、彼女の仏壇が置いてあり、線香の煙が数本、立ち上っていた。僕は歩を止め、彼女に仏壇の前で拝んでいいか訊ねると、彼女は快く承諾した。
 彼女の写真が飾ってある仏壇の前で正座し、鈴を鈴棒で打って両手を合わせ、静かにゆっくりと目を閉じた。僕は、彼女が一緒に隣で正座しているのに、彼女の仏壇を拝むのは何だか変だと思ったが、その感情を押し殺し、心を無にしようと努めた。
 両足の皮膚に畳の跡を付けたまま、僕達2人は悪魔の眠っている寝室へ歩を進めた。そして僕は寝室のドアを3回、軽くノックしたが、暫く経っても何の返事も無かった。
 僕は悪魔の目を覚ますように、少し大きな声で呼び掛けた。
「おい、起きてくれよ。そろそろ君とお別れをしなくちゃならない時間だ」
「もう時間よ」
 彼女も彼に声を掛けた。
 しかし、何時まで経っても悪魔が寝室から出てくる気配は無かった。もう、本当に、彼の寿命のタイムリミットが迫っていた。外から、小さく、ぬかるんだ大地の薄い水面に吸い込まれていくような雨音が聞こえていた。そして、寝室からはそれとはまた異なった雨音が聞こえていた。
「おい、本当に時間が無いんだ。…中に入って彼を起こしてもいいかな?」
 僕は彼女に訊ねた。
 彼女は無言でうん、と頷くと、僕は少し間を置いて寝室へ入った。
 すると、其処で、悪魔はシーツで首を吊って宙に浮いていた。

   11

 遺書等は、僕の確信を超えて、何処からも発見されなかった。悪魔の鼻から出た鼻水は、まだ真新しいものだった。彼女はあまりの衝撃により、寝室前の廊下で、泣き崩れていた。僕が悪魔の死体を天井から降ろそうとした瞬間、突然辺りの風景が変わり、僕は海の中に立っていた。僕の真下の海面には、高野悦子の「二十歳の原点」がゆらゆらと浮いていた。僕はその文庫本が海水を吸わないように、素早く引き上げ、それを持ったまま、何も考えることができずに、ぼんやりと立ち尽くしていた。そして、少しずつ、心の中に、得体の知れない感情が染み込んできて、言いようのない後頭部の痛みを感じ始めた。それは頭痛等の類ではなかった。凍えるような寒気もしてきた。
 心の痛みを取り除く為に、深く短い溜め息を1度吐いた。それは僕の中に快感を生んだ。そして、その気持ち良さ故に、“このまま死にたい”、と思った。

   12

 僕は“僕”の死んだ恋人の死んだ森で意識を取り戻した。其処は、虫の音が忙しなく鳴り響き渡り、梟の鳴き声が「大きな古時計」のおじいさんの時計の振子の音を彷彿とさせ、“真っ暗な”風景の上空に、白く輝く点が瞬いていた。僕にはどうしてこんなに辺りが暗いのか、訳が分からなかった。彼女が首を吊った樹から立ち上がると、ずきん、と、激しい頭痛が起きた。それは深い眠りを取らなければ治らないような類の頭の痛みであった。体がひどく疲れていた。早く柔らかく分厚いベッドの中で眠りたかった。しかし、僕には帰る家も、これから行くあて等、何も無かった。取り敢えず森を出ようと思い、もう1度彼女の自殺した樹へ振り返ると、根元に、1冊の文庫本が落ちていた。僕はその根元まで戻り、拾い上げると、表紙には、「二十歳の原点」と書かれていた。僕はその文庫本のタイトルを初めて知った。急に強い風が吹いて、文庫本の頁がパラパラと捲れていき、最も“のど”に折り目の付いた場所でそれは止まった。その場所とは、“204頁”から“209頁”の間であった。その間の頁は、誰かに引き千切られたように破れていた。僕は疑問に思った。“どうして此処の頁だけ無くなっているのだろう?”と。そう感じると、再び激しく頭が痛んだ。そして、途端に言い様のない絶望感と虚無感が押し寄せてきて、瞼を開くのがしんどくなった。そして再度その文庫本の失われた頁の個所を開こうとすると吐き気がした。僕は頭をぶんぶんと左右に振り、それをジーンズの後ろポケットに捻じ込み、体調が悪化しないように、足早に森の出口を探しにその場を離れた。腕時計の針は、午前0時をとっくに過ぎていた。

   13

 財布には、17円しか残されていなかった。なので、森を出た後、骨の髄まで染み込むような寒さを凌ぐ為に、歩いて10分程した所にあった、見慣れぬバス会社の待合室の木製のベンチに横たわり、全身を縮こませながら、痛みを帯びた瞼を閉じた。そして、その暗闇の中で、“自分はこの世界の神様であったはずだ”、ということと、自分が何かとても大きなものを失い、その記憶すらも忽然と頭の中から消えてしまったことを思い出した。古惚けた待合室の中で、腐った木のベンチの匂いがやけに気になり、また、たてつけの悪い硝子扉が、強風にがたがたがた…と揺れる音が僕の集中力を否応なしに削ぎ落としたので、なかなか寝付けず、胸の奥がむかむかし始めた。結局、東の空から朝日が昇って来て、始発のバスが外の停留所に到着し、バスの運転手がバスから降りて朝日の光が射し込む待合室に入って来て、
「兄ちゃん、乗らないのかい?」
 と目を瞑っていた僕の肩を強く揺するまでずっと胸の奥の痛みにイライラし続けていた。
 僕は上体を起こし、運転手に言った。
「…すみません…。生憎、バスに乗るお金を持ち合わせていないんです…」
作品名:24歳の原点 作家名:丸山雅史