24歳の原点
─そう、未熟という言葉があります──その未熟なのに、いやらしいエゴを背負って生きていくのかって思いました。私もどうして生きているのかと思いました。つまらない醜い独りの人間が、おたがいに何かを創造しようと生きているのだと、今思いました。いろいろな醜さがあるけれども、とにかくみんなで何かを生み出そうとしているのです。何かを創造しようとして人間は生きているのです。
僕はいつもこの個所を、時には黙読し、時には朗読すると、必ず、一瞬心の鼓動が止まったような感覚に陥り、煙草を無性に吸いたくなる。そして、どうして彼女は死の直前に、この文庫本を僕に「東急百貨店東横店東店」の屋上で、激しい夕立の中、プレゼントしてくれたのか理解できなかった。この全知全能の神様である僕ですら、それは永遠に分からないのかもしれない。僕は徐に胸ポケットから煙草を箱から抜き出し、無くなりかけのグリーンの100円ライターで火を点けた。雨は僕に何かを問い掛けているようだった。高野悦子は1969年6月24日未明、鉄道自殺を図った。僕─僕“達”の恋人は、2004年5月12日未明、首吊り自殺を図った。彼女は死の直前に、僕が貸した村上春樹の「ノルウェイの森」を読んでいた。鼻水の垂れた彼女の死体の傍らに、その「ノルウェイの森」の上下巻が、お互いの表表紙を合わせた形で残されていた。僕は、煙草の煙を、土砂降りの雨の避難場所から、無数の重力の針に向かって、ふぅー、っと吹き掛けた。
9
時間を潰すことが、そして熱を失った煙草の吸い殻を、靴で踏み潰すことが、こんなにも退屈なことだということを今日、初めて知った。悪魔と彼女はどんな至福の時を過ごしているのだろう。そして、想像力が足りなくなり、もう2度と彼女に逢えなくなることを、悪魔の居なくなった世界で、どのように対処していけばいいのだろう。更に、彼は“死んだ”後、一体どうなってしまうのだろう。
「二十歳の原点」の1番後ろの方の、有名な作家達の作品群の説明が掲載されている頁を、そのようなことを考えながら読んでいると、遥か前方から、紺色の傘を差した全裸の女性が歩いてきた。女性だと分かったのは、その人物に自分の下腹部に付いているものがぶら下がっていなかったからである。そして僕が雨宿りしている、「SHIBUYA109」の正面入り口で、その女性は傘をほんの少し上げた。僕“達”の彼女だった。
「貴方のもう1人の分身は、私の家のベッドの中で、ぐっすりと眠っているわ。彼の寿命もあと、1、2時間程度ね。彼には、私とのセックスでたっぷりと疲労してもらったわ。実家を出る時、きちんと彼に毛布を掛けてあげておいたから心配しないで」
そう言うと、彼女は紺色の傘を閉じ、それに付着していた水滴をコンクリートの地面でその先端でそっと小突いて落とし、丁寧に巻いて金属のボタンで止めて僕の隣に座り、それを自分の左側に置いた。僕も「二十歳の原点」を、自分の右側の地面に置いた。
気が付くと、僕も全裸に戻っており、足元の煙草の亡骸だけが未だに噎せるような匂いを発していた。僕がそれをじっと見つめ、雨音に耳を澄ませていると、突然、彼女が僕の乾いた唇に、果実のような柔らかさを持つ、美しい唇を密着させてきた。
僕は初め、抵抗して自分の唇から彼女の潤いに富んだ唇を離そうと彼女の両肩を両の掌で押そうとしたが、急激に心臓が心拍数を上昇させ、僕の食道の辺りの筋肉を巡る血液で暖め始めると、突如ペニスの皮の血管がどくどくと憤るように熱を持ち、ペニスを硬直させた。
それはそれは長いキスであった。僕は彼女の瞼を閉じた表情をじっと見つめていた。彼女の小さな豆粒のような2つの桃色の乳首も僕のペニスと同じように勃起し、体の中にある僕に対する愛情を、全て、全身全霊で、唇から僕の心の奥底へ流し込んでいた。しかし、僕には彼女に対する性欲が全く存在しなかった。やがてそのことに気付いた彼女は、とても寂しげな表情をして、ゆっくりと纏わりつくような唇を離した。
僕のペニスは、次第に重力に抵抗する力を失っていった。そして元のサイズに戻った。彼女の乳首には、寒さのせいからか、美しい乳輪にぶつぶつと、鳥肌が立っていた。
彼女は途端にうっすらと瞳に涙を浮かべた。
「貴方と彼で初めて本当の“貴方”なのね。…私は、その“貴方”を愛していた」
僕はその言葉を頭の中で噛み砕く前に、彼女に1つの質問を投げ掛けた。
「どうして自殺なんかしたんだい?」
彼女の涙の滴は静かに雨の音に掻き消されて、アスファルトに落ちた。
「…分からない」
僕は溜め息を吐いた。
「神様である僕にだって分からないことなんだ。それは。そして自殺という選択肢を取った君“自身”ですら、その理由が分からない、と言う。どうしてだい? 君は自殺した原因をただ、忘れているだけなのじゃないかい?」
「…“人は何故生きていくのか”、“人はどうして生きているのか”……」
「プレゼントしてくれた文庫本の、あの何度も何度も線を入れてある個所の言葉だね? 君は、この本の作者の思想に感化され過ぎたんじゃないかい? それで、自分も感傷的な気持ちになって……」
「…“人は何故生きていくのか”、“人はどうして生きているのか”…、その答えは、本当は分かっているの。…でも、どうして自分が自殺したのかが分からない。…けど、漠然と死にたかったの」
その言葉を聴いた瞬間、僕は、もしかしたら、彼女のたった1つの要因が、“僕”にあるのではないか、と思った。いや、それは仮定ではなく、次第に絶望が胸の中を侵食していくような、恐怖が現実味を帯びていく確証的な事実であった。
では、僕に具体的に、どんな要因があるというのか。そんな不安が無意識の内に僕の横隔膜を膨張させ、僕はいつの間にか彼女と視線を合わせ、言葉を放っていた。
「…僕が悪かったんだろう? 僕が君の心の中の負の感情の存在に気付いて、掬い取ってあげていれば、君は自殺なんかしなかったんだろう?」
「違うわ」
彼女は真面目な表情で即答した。
「じゃあ、他にどんな理由があるっていうんだい?」
彼女は僕が問い掛けた言葉には答えず、両足でさらに股を閉じ、果てしの無い雨の向こうの景色を見ていた。この世界に現れた渋谷区は僕の幻想であり、雨と、“彼女”が死んだという事実だけが現実なのであろう。
時間は、雨の落下速度と同じ速さで過ぎて行った。“漠然と死にたかった”、それが、彼女が自殺した本当の理由なのかもしれない。
10
「もうそろそろ、“彼”の寿命が無くなる時間よ。そして“私”ともお別れの時間ね。それじゃあ私の実家へ戻りましょうか?」
「…うん」