24歳の原点
悪魔は僕に心を読まれたせいか、一瞬たじろいだ。
「…ま、まぁ、そんなところさ…、そんなことを言いたかったのさ……」
そして悪魔は黙りこくってしまった。
僕は彼から視線を外して、辺りの自然を見回し、虫達の鳴き声に耳を澄ませた。
時間がゆっくりとではあるが、確実に音も無く流れていた。それはこの世の果ての時間の海、具体的に言うと、“生命の海”へ流れていくのだ。
僕は悪魔に言った。
「さぁ、自殺した僕達の彼女の元へ逢いに行こう」
悪魔は僕の言っている意味が分からない、といった調子で仰天した。
「何を言ってるんだ?! 此処からどうやって彼女の元へと行ける、っていうんだ?? …お前、まさか…、此処で自殺して彼女の居る場所へとなんて……」
「違う」
僕は悪魔を、慈しみを込めるように宥めた。
「違うよ。僕達は自殺なんてしなくても彼女の元へと逢いに行けるんだ」
「じゃあどうやって…」
悪魔は激しい頭痛のせいか、それとも頭が混乱し、眩暈がしてきたのか、何度もその場でふらついて右手をおでこに当てていた。僕もまだ、頭痛が治まっていなかった。
「その彼女が首を吊った樹の根元に座って、“仮死状態”になってこの“世界”を出るのさ。その場合、僕達は実体をもたない“人間”となって、神々の想像力によって具現化された4次元世界を越えるんだ。その先には、神々の領域外である、誰も到達したことのない世界が広がっている。其処には、“本当の現実世界”という名の、限りなく無限に近い宇宙が無数に存在するんだ。そしてそれらを包括する僕達の想像力の限界が、この世の果てを縁取っている。その縁の先に何があるのか勿論分からない。彼女は、その縁と、“時間の海”の境界線の真ん中で1人、両足を沈めて僕達が来るのを待っている」
「俺達の想像力の限界が、この世の果てを縁取っているんだな…。彼女はやっぱり、俺達のことが忘れられなくて、その境界線から、俺達の想像力の限界を見つめているんだな…。…なぁ、教えてくれよ、お前は神なんだから未来のことでも何でも分かるんだろう? 俺は、…いや、俺達は、俺の寿命が尽き果てるまでに、死んだ彼女の元へ辿り着けるのか? それとも、やっぱり、そんな途方に暮れるような遠い場所へは、死ぬまでに辿り着けないのか?」
「辿り着けるよ。断言できる。そして君は、彼女と共に、その境界線の先、つまり、“時間の海”へと還っていくんだ。そうして君達は永遠に幸せを育むことができる」
僕が微笑みを浮かべて悪魔にそう告げると、彼の顔は今までに見たことのない穏やかな表情へと変化したが、途端に僕に顔を向けて深刻な表情、つまり心情を露骨に露わにした。
「…けど、お前はいいのか? このお前の悪魔である俺だけが、嘗てお前も愛した恋人と一緒に、…永遠に、幸せになっていいのか?」
僕は一旦悪魔から視線を外し、小鳥が、彼女が首を吊った樹の下で木の実を啄み、別の樹へ移るまで腰に手を当てて待ち、小鳥がその場所から飛び去るとゆっくりと歩き出してその樹の根元に腰を下ろし、幹に背中と少しだけ治まった頭痛のする頭の後頭部を密着させ、深い溜め息を吐いた。そして、僕は再び立ち尽くしている悪魔と視線を合わせた。
「僕の心の中には死んだ彼女との幸せな思い出しか残っていないんだ。だから君には悪いけど、彼女が“死んだ”という事実に対して、別段何も悲しくはないし、永遠にその彼女と幸せになりたいとは微塵足りとも思わないよ。それは君が、僕と分裂した時に、僕の負の感情全てが君の心の中に移動したからだと思う。本当は今もとても悲しいのかもしれないけど、さっきカフェで君が教えてくれたように、僕の心の中から悲しみが生まれても、君の心へと流動し、蓄積していっているから、この通り平常心を保っていられるんだよ。もし僕と君が分裂しなかったら、僕はあまりの絶望の為に、この場所で彼女と同じように首を吊っていたかもしれない。けど、普通の人達とは違って、僕には君という存在がいたから、今まで生きてこられたんだ。そして、君が僕達の想像力の果てで彼女と再会し、その想像がつかないその果てで、幸せになれたら、これからの人生で、僕は君という存在が居なくても、1人で生きていける気がする。いや、生きていけるんだ。そして新しい女性と恋をし、結婚して、子供をもうけて、永遠ではないけれど、限られた時間の中で、僕なりに、幸せに生きていくよ。僕の未来についてはね、僕の想像力では予測できないけれど、君のことを忘れずに、恩を忘れずに、頑張っていこうと思う」
悪魔は僕の話を聴き終えると、途端に瞳から涙を流し、灰色のジャケットの袖でそれをごしごしと拭いた。そして目を真っ赤にした彼は、僕に向かって頭を下げ、その姿勢のまままた涙を零し、最後にはその場に崩れ落ちて声を上げて号泣した。僕は彼の姿を見ていると、胸と目頭に熱いものを感じ、これから冬を越えて来年の春に向かって繁栄していく虫達の鳴き声や、小鳥達の囀りを聴いていた。そうして微熱を含んだ瞼を下ろし、亡くなった彼女との幸せだった日々を脳裏に映し出していると、突然右手の掌に温かい温もりを感じ、目を開けてみると、唇の端を上げて僕に向かって頷いた悪魔が隣に座っていた。僕は彼に微笑み返し、再び目を瞑ると、彼女の笑顔を思い浮かべ、次第に意識が薄れていくのを感じた。
5
僕は深い眠りに落ちている悪魔の肩を優しく揺すった。少しして彼は意識が戻ると、自分と僕が全裸であることに戸惑いを隠せない様子だった。
辺りには干ばつにより無数に罅の入った灰色の大地が果てしなく広がっていた。悪魔は見渡す限り自分が凭れかかっていた彼女が首吊り自殺を図った樹1本だけしか生えていないことに気が付き、肌寒い風が吹き付けて来ると、両腕を両手で抱え、全身をぶるぶると震わせ、大きいくしゃみを1度した。
「此処が俺達の想像力の果てかい? お前の言っていた“時間の海”っていうのは一体何処に?」
鼻水を啜りながら悪魔は僕に訊ねた。
「あの先だよ」
僕は悪魔の背後に映る風景に指を指して答えた。
「あの先って…。曇り空と大地の境目の先には何も見えないけれど?」
「今、僕達が見ているこの景色は全て蜃気楼なんだ。少し歩くけど、すぐ其処に、“時間の海”があるんだよ。歩いていけば、自ずと分かるさ」
僕はそう言うと、悪魔の右手を引っ張って立ち上がらせ、僕達は僕が指で示した方角に向かって歩き始めた。
6
僕の腕時計は止まっていた。さらに、悪魔の腕時計も止まっていた。
悪魔は自分の右手に嵌められた腕時計を僕に指し示して言った。
「どうして時計の針が動いていないんだ?」
「此処では“時間”という存在が全て、“時間の海”へ流れて行っているからさ」
「つまり、俺達の命の時間も、その“海”へ流れて行っているという訳か?」
「時に緩やかに、時に速くにね。まるで、“時間”自体が意識を持っているみたいに、この世界の心臓のリズムに合わせて、“時間”は“時間の集合体”に吸い込まれていく」