24歳の原点
僕はカウンターに両手をつき、神様に向かって頭を下げた。しかし、幾らその姿勢で待っても、神様は返事をしてくれなかった。
僕は恐る恐る顔を上げ、神様の顔を見上げた。
すると神様は僕“達”にこう言った。
「申し訳ないけど、それは、私にもできないよ…」
「どうしてです!? あなたは全知全能の、神様でしょう??」
神様は寂しい表情で俯き、軽く首を左右に振った。
「私を育てた先代の神は、『何があっても、お前は自分の力を他者の為に使ってはならない。矛盾していることを言っているかもしれないが、お前は自分の心の中の宇宙がそれを上回るまで、この世を見守っていなければならない』とね。…実は君達には黙っていたけれど、私の寿命も、君の隣のもう1人の“君”よりも12時間早い、“正午”ちょうどなんだ。そこで突然で悪いが、私が死んだ後、今度は“君”が神様になってくれないか? 私は君と初めて会った時からずっとそう決めていたんだ。神様の寿命だって、人間と同じように、人それぞれなんだ。ほら、時計を見てご覧。後20分で私は“死ななければならない”。自分の負の部分を1つの人格化させ、救済を行おうと真剣になっている君なら、きっと、もう1人の自分の救済の仕方をきっと、タイムリミット内に見つけることができると思う。…20分を切ったね。私が死んだ後、私の死体の処理についてだけど、申し訳ないが携帯電話で救急車を呼んでくれないかな? 勿論、私と君達は全くの他人同士、つまり、今日初めてこのカフェに来たんです、とでも言っておいてくれ。君は、私が死ぬと同時に、この世の全てに対して強大で、新たな力を手に入れられる。神は他者に対して決して力を貸すことはできないけれど、“自分の為にならどれだけ力を行使してもいい”んだ。神に選ばれた者は、それ以前までにそれ相応の苦労を重ねてきているからね。簡単に言ってしまえば、その“力”はその者の“特権”なんだ。これは私の、世界に対する仮説だが、代々神は、自分の願望を叶える為に、この世界に彩りを加えていったのだと思う。しかし、それ故、世界は複雑化を極め、この時代において、とうとう、“世界”は最早神々の手中に収まりきらなくなった。つまり、既に、神は、“ただの1個体”と化してしまったのだよ。だから私は、この欲望に満ち溢れた世界で、人間達と同じように学業を修め、汗水垂らして働き、このカフェのマスターとなった。もう、この世界には“神様”、いや、“私という神様”は必要が無いんだ。何故なら、私にはこの時代の人々の欲望を満たすことができないから。…しかしね、しつこいかもしれないけど、君なら、隣のもう1人の“自分”の為に、力を使い、助けることができる。…さて、最後に君達にお願いがあるんだが、私がこの25年間、探し求めていた珈琲豆で、1杯、珈琲を飲んでくれないかな? そして率直な感想を聴かせてほしい。死ぬ前に、“新しい神様”から、私の淹れた珈琲の感想を聴きたいんだ」
3
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。僕と悪魔は道玄坂を上り、地面に散らばった落ち葉の踏みしめる音を立てながら、突如降り出した雨の滴に濡れている。
「俺、もっと、もっと、小説、書きたいよ」
悪魔は僕に視線を向けて話し掛けてきたが、僕はじっと自分の黒の皮靴の爪先を見つめ、黙々と歩き続けていた。
「生きたいよ。お前の完全な力で、この命を延ばしてもらって、明日から、また、長い長い小説を、いっぱい、寿命が尽きるまで書きたいよ」
「……」
僕は悪魔の視線に自分の視線を結んだ。そして、彼に自然と溢れてくる言葉を届けた。
「君の…その…願いは勿論叶えてやりたいさ、けどね、あのカフェのマスターが亡くなってから、その…、自分に“全知全能”の力が身に付いたとはどうしても思えないんだ…」
「お前は誰が見ても、神に見えるよ」
悪魔はそう呟くと、鞄を頭上に翳して小走りで坂を下りてくる1人の女性と飼い犬のダックスフンドが、驚いた表情で僕を見つめていることを顎で彼女を指して分かった。
「なぁ…、お前は、ダンテの『神曲』という小説を知っているか?」
悪魔は少し眉間に皺を寄せて僕に訊ねてきた。
「いや…、名前と題名だけは聞いたことがあるけど、内容までは……」
「作者の“ダンテ・アリギエーリ”が、幼少時代に心惹かれ、俺達の今の年齢、つまり24歳で夭逝した女性、“ベアトリーチェ”へ逢いに、『煉獄山』の山頂の『地上楽園』へ行き、最後に彼女と共に、天国界の『エンピレオ』に辿り着き永遠になる話なんだ」
「その話がどうかしたのか?」
そう訊くと、悪魔はゆっくりと首を垂れ、足元の枯れ葉の絨毯を力強く踏み始め、その音と感触を何度も何度も、何とも言いようのない感情を鎮める為に確かめているように映った。
「…いや、ただ、そんな“世界”がこの現実の世界にもあったらいいな、と思っただけさ。…俺は、アイツ…、自殺した彼女と一緒に、そんな体験ができるのなら、今日限りの命でも構わないと思っただけさ」
悪魔はジーンズのポケットからくしゃくしゃに潰れた煙草の箱を取り出し、その中から残り少ない煙草を摘まみ出し、ライターで火を点け、煙を吐いた。
「あぁ……、お前は“死んだ後”もこんなに旨い煙草が吸えると思うか?」
「なぁ、分かった気がするんだ」
僕は悪魔の問いには答えず、一方的に自分の話を進めた。
「この世界の全てをね。多分、お前の願い全てを叶えることはできないけれど、…、死んだ僕達の彼女をまたお前に逢わせることができると思うんだ。そのダンテの小説のようにね」
悪魔は足を止め、唇から煙草を落とした。
「…、ほ、本当か? …ど、どうやって?」
僕は激しくなってきた雨粒の浮かんだ空を暫くの間見上げ、やがてずぶ濡れの悪魔の顔を真剣に見つめた。
「彼女の死んだ森へ行こう」
4
僕と悪魔は突如襲い掛かって来た激しい頭痛に耐えながら、マスターから頂いた僅かなお金で電車を乗り継ぎし、東京近郊のある国有地である森の中へ入った。時刻は午後2時を示していた。雨は上がり、空は雨雲ではない雲に覆われていた。僕達は記憶の底から僕達の恋人が首吊り自殺をした場所までの道順を探し続けていた。
ある時、ある場所で、悪魔は立ち止った。
「あった…。此処の樹だ……」
悪魔が見上げた樹の太い枝には、5年半経った今でも生々しく、恋人が首を吊ったロープが擦れて樹皮が剥げ落ちていた。この樹は、おそらく、この周辺に僕達の恋人や僕達の悲しみが充満し、時間がゆっくりと、蕩けるように流れているのだろう。それ故に、ロープで擦れた樹皮の再生が遅いのであろう。
「…彼女は、高野悦子の、『二十歳の原点』という本に影響されて自殺したことが警察の調べで分かっている。…、なんか、森の中で“首吊り自殺”、って、村上春樹の『ノルウェイの森』のヒロイン、直子みたいな死に方だよな。…お前には彼女への想いが残されていないから何とも思わないかもしれないけど、お前の負の感情を抱いて生きている俺にしてみれば…」
「結局、彼女の心の闇、つまり“宇宙”の膨張を食い止めることができなかった哀れな男だ、って言いたいんだろう?」