地球の眠り
も気付かなかった。僕も、フジの愛する彼女のように死んでしまったけれど、
フジの記憶の中では生きているんだ。そうだろう?」
僕は聞いてくれるだけでいいと言われていても、思わず頷いた。
「思い出の中だけの人を愛し続けることは難しいと思うよ。現実で藻掻き苦し
みながら、他の異性を愛さない…じゃなくて、愛せないということは、フジの
人生にとって大きな暗闇の帳が降りるだけさ。フジが心底嫌いなこの僕達がフ
ジの夢に出てきたのは、きっと、そのことについての警告者としてフジの脳が
自発的に選んだのだと思うよ」
もう君達を恨んでなんかいない、と僕は思った。しかし声が出なくて、その
ことを彼らに伝えることができずに、ただ俯くばかりであった。
「…嫌われ者の俺達だって好きで藤川の夢に出てきてる訳じゃないんだ。お前
の記憶なのに、勝手に意志を持って存在しているなんて許されないだろ? …
だから謝っても謝りきれない…だけど、此奴も言った通り、俺達にはちゃんと
した理由があって出てきてるんだ。だから、ちゃんと考えてくれ、もう彼女の
事を想うのは止めるということを」
生きている.年は(生きているか、死んでいるかなど、もう関係なかった 以
下生きている.年【上弦】、死んでいる.年【下弦】)、僕に歩み寄り、真剣
な表情で見つめてきた。が、僕は俯いたまま彼らの間を歩いていった。
「おい、待てよ!!」上弦は大声を発し、僕の歩を止めようとした。しかし僕
は暗闇の霧の中へ向かって歩き続けた。
「フジ!! そっちへ行っちゃいけない!!」下弦も叫んだが、それらの言葉
が僕の意志に膠着しなかった。
二人が駆けてくると、僕は歩調を速め、どんどん霧の中へ進んでいった。ど
んな世界が待っているのだろう。僕はそう思いながら、やがて朧気ながらに微
かに見え始めた景色に意識が奪われていった。
視界がはっきりすると、其処は何処かの教室だった。しかし、.し見覚えの
ある、懐かしい場所であることは間違いなかった。どうやって霧の中からこの
中へ入ってきたかは分からなかったが、おそらく体が透けて入ってきたのだと
思った。もう振り返って壁に爪先を当ててみても、通ることはできなかった。
教室には上弦も下弦も誰もいなく、三つの大きな窓から、クリーム色の光が射
し込んでいて、床に日溜まりをつくっていた。窓の外には、景色は無く、世界
全体が眩い光に包まれていた。最前列の机の表面に触れてみると、若干熱いぐ
らいで、凍り付いた心の傍には永遠が埃を被ってじっと沈黙しているのを感じ
た。四十余りの机の上の中の五つの机の上にはそれぞれ花瓶が置いてあり、花
が添えられていた。僕はその一つ一つを眺めたり触ったりしてみたが、何も起
こらなかった。何かが僕を懐かしくさせていた。さっき下弦が言っていた、?
そっちに行ってはいけない?という言葉が、どういう意味を表しているのかさ
っぱり分からなかったが、この空間は僕にとって何の害も及ぼさないと思った。
僕は振り返ってふと黒板を見た。すると白いチョークで、何やら詩のような
ものが書いてあるのを見つけた。その詩を僕は読み上げた。
地球の眠り
世界はこんなにも静かだ
人間達や動物達や虫達や植物達は眠っている
私だけが目を覚ましている
夜は朝を呼ぶことなくじっと眠っている
星々や月は住処に戻っているらしく姿がない
雲は風の寝言を聞いて意識のないままゆっくりと漂っている
眠りのオルゴールが鳴っている
万物は眠りに落ちている
地球は自転を止めた
宇宙は拡大するのを止めた
何も無い世界は存在することを止めた
時計の針は進むのを止めた
何処かの老人は呼吸をすることを終えた
精子は卵子の中に入っていくことを止めた
私は大人になることを躊躇っていた
マージナル・マン
ピーターパン・シンドローム
なぜ私だけが目を覚ましているのだろう
永遠の眠り
つかの間の眠り
太陽は私達に背を向けて眠っている
何処かの夫婦は背を向け合って眠っている
近所の犬は耳を折って眠っている
裸の天使は天国で羽を畳んでベッドで 鼾をかきながらぐっすりと眠っ
ている
私は耳を澄ます
大地と大地が狭苦しさの為に蠢いているのが聞こえる
宇宙と宇宙が擦れ合っているのが聞こえる
自然と自然が燃え上がっているのが聞こえる
無と無が輝き合っているのが聞こえる
私は目を懲らす
天地がぶつかり合っているのが見える
地球が縦に押し潰されるのが見える
精子と卵子が引き離されるのが見える
夫婦達が互いにベッドから転げ落ちるのが見える
眠りのオルゴールを感じる
私は目を閉じる
僕は読み終わると、何故か不思議な虚しさが心を覆った。ふと視線を移すと、
教卓の隣に、高校の時の担任が立っていた。僕ははっとした。此処は僕の出身
高校の、自分の教室だということにようやく気が付いた。彼は三年間僕の担任
を務め、その翌年四十歳の若さで心臓病で死んだのだった。僕はこの世界が夢
の世界だと再認識し、彼に近付いて行って、無意識に声をかけた。
「先生…」
「…久し振りだね、藤川君。君に会えてとても嬉しいよ」先生はにこやかに笑
い、白い歯をこぼした。
「…どうして先生が僕の夢の中へ?」
「それは君が私を必要としていたからさ」
「…必要?」
「そうさ。この詩を解説させる為に君が無意識の内に記憶の中から私を呼んだ
のさ」とスマートな先生は黒板に書かれた詩を見ながら言った。「実に良くで
きた詩だね」
先生は生前、現代文の教師だった。また、読書家でもあり、同じ趣味を持っ
ていた僕達は度々、放課後、世界のあらゆる文学作品について語り合ったのだ
った。
「これを書いた人物はきっと素晴らしい詩人になると思うよ」
「…この詩を書いた人を知っているんですか?」僕は先生に.し驚いた様子で
尋ねた。
「君の愛する女性だよ」
僕の心に衝撃が走った。
「えっ!?」
「彼女は、君と同じように現実を拒んでいたのかな」先生は.し笑いを堪える
ような仕草を見せた。先生がどうして笑っているのか僕には訳が分からなかっ
た。何が可笑しいのだろう? 僕の頭の中は不安で一杯になった。
「どうして笑うんです? 先生? 彼女がこの詩をいつ書いて、僕の記憶の中
に残していったんです? どのように? 僕は彼女に生前、このような詩を見
せて貰った覚えがありません。それははっきりしています。詩を書いていたこ
とですら知らなかったんです。…確かに、僕は彼女のことを殆ど何も知りませ
んでした。が、現実的に不可能じゃありませんか? 現実で見たこともない詩
を記憶するなんてことは?」