地球の眠り
「それが違うのだよ藤川君」先生はとうとう堪えきれなくなったのか声を高ら
かに笑った。「?君の中の彼女?が、この詩を書いたのだよ!! つまり、君
自身が書いたということさ!! この夢の世界も、想像の世界も、全て己の心
の闇が創ったんだ!! この私を蘇らせたのも君自身だ。結論から言うと、君
は自業自得なのだよ。損をする人間ということさ。いつまでも死んだ人間のこ
とばかり考えていて、現実から逃げているのだ。不完全の愛情を暗闇に無駄に
蓄積しているようなものなんだ!!」
「違います!! 僕は末当に今でも彼女を愛しているんです!! 決して無駄
に消費なんてしていない!! 僕が大人になる為には、どうしても解かなきゃ
いけない呪縛なんです!!」
「もう存在することを拒否している人間がいてもか!!」先生は笑い顔から突
然怒りに満ちた表情に変えて怒鳴りだした。
「…存在を拒否している人間? …それは先生のことですか?」僕は一瞬にし
て背筋が凍り付き、急速に不安が胸の中にも溜まってきた。
「その子達のことだよ」先生は再び笑い出して顎で後ろを指した。僕は振り返
ってみると、なんと、上弦と下弦が俯いて、机の後ろに立っていた。先程とは
まるで異質な雰囲気を放つ二人は、右手にサバイバルナイフを持っていた。
「さぁ、此奴を片付けろ!! 現実と同じような苦しみを受けてな!!」先生
は絶頂的な声で叫び、二人に命令した。
一斉に三つの大きな窓からの光が消えて、二人は顔を上げ頷き、一歩一歩と
近付いてきた。僕は教室を無意識の内に駆け出し、引き戸を開けようとした。
しかし、いくら力を入れてもびくともしなかった。ガラス窓の向こうにはただ
ただ暗闇が広がっているだけだった。
「此処が君の墓場なのだよ。藤川君。暗闇に飲まれながら永遠に藻掻き続ける
がいい!!」
先生の不気味な微笑みが最高潮に達した。僕は錯乱する頭の中でこの物語の
最初に書いた中年の男性が目の前にいる先生だったということを今はっきりと
思い出した。先生は悪魔のような表情で僕を睨み付け、ずっと笑い続けていた。
引き戸の隙間からは暗闇が流れ込んできた。僕は後ずさり、机に足をかけて転
んだ。二人は僕の前で止まり、サバイバルナイフを勢いよく振り翳した。もう
駄目だ!! そう思って咄嗟に目を瞑った瞬間、「フジ!!」と叫ぶ声が聞こ
えて、がしゃん、と机が幾つも倒れる物凄い音がした。僕は目を開けてその方
向を見てみると、上弦と下弦がそれぞれ自分の分身に馬乗りになってナイフを
取り合っていた。すると突然呻き声が聞こえ、振り返ると、先生が心臓を押さ
えて苦しんでいた。
「先生!!」
僕は叫んで駆け寄ると、先生は暗闇が溜まり始めた床に倒れた。僕が頭を持
ち上ると、涙を流しながらこう言った。
「…はは、すまなかったね藤川君…、こういう形で君と再会してしまって…。
…末当はまた君と文学についてゆっくり語り合いたかった…。この詩は確かに
君の愛する女性が書いたのかもしれないね…。君の自分に対する悲しみを彼女
は表現したかったのかもしれない…。この広い世界に、そういうことがあって
もおかしくないよ…」
先生は脂汗を沢山額に浮かばせて、更に顔を歪ませた。
「先生!!…」
「…もうお別れの時間だ。でも私の言ったことは全て嘘ではないよ。君は彼女
への想いを大切にして、光の世界で生きるんだ。この夢や頭の中の世界で学ん
だことを思い出しながら…さようなら…必ず自分自身に勝つんだ。そして先の
見えない.来をも乗り越える強き翼を心に持って…」
先生は目を閉じ、首を垂らし、静かにゆっくりと消えていった。僕は泣き叫
び、軽くなった腕をだらんとさせ、涙を暗闇に落とした。
振り返ると上弦と下弦はほぼ同時に先生と同じように消えていった、自分自
身達の上から起き上がり、真っ直ぐに僕を見て、沈黙していた。僕も立ち上が
ると、二人を見つめ、黒板を眺めた。
「藤川の痛みがこんな俺にも伝わってくるよ」
上弦は僕の隣に並び、ぽつりとそう呟いた。「大切なものを失うとこんなに
も世界が違って見えるのか、ってね」
「有り難う…」僕は小さな上弦の頭を撫で、昔小学生の頃、悪戯をした罰とし
て一緒に教室の後ろに立たされたことをふと思い出した。
「僕にもフジの悲しみがすごく伝わってくるよ。フジの愛する人への想いが彼
女を…想像の世界でだけど…蘇らせたのと同じように、彼女のフジへの想いが
フジの想いを代弁して、この夢の外の世界を創造したんだよ。止め処なく溢れ
てくる彼女への愛の在処を探させる為に…きっとそうに違いないよ。けど、そ
れがフジの中の何処にあるのかは僕達には分からない。それはフジ自身が苦し
みや悲しみを乗り越える為に、これから現実を生きる為に、自分一人で見つけ
なきゃいけない事だと思うよ。でも決して愛の出口に蓋をしちゃいけない。そ
れは自分で自分を悲しませ、苦しませるだけだから…。先生や、この詩はそう
いうことを訴えたかったんだよ」
下弦も僕の横に来て、目を真っ赤にしてそう言った。
僕達は暗闇が股の辺りまで溜まってくるまで無言で黒板を眺め続けていた。
そうしてふと思い出したように上弦が、
「もう此処から出なくちゃいけない」と僕の顔を見上げると、
「うん。分かった」と僕は頷いた。
上弦と下弦は引き戸の所までゆっくりと歩いて行き、扉を開けた。
「名残惜しいのは分かる。けど、お前の末当に求めている永遠の愛は、此処に
は無いぜ」
上弦はそう振り返りじっと僕の顔を見つめた後、暗闇の中へ消えていった。
「…さぁ、行こう。フジ…」
下弦は潤んだ瞳でそっと僕を呼んだ。僕はもう一度、「地球の眠り」を読み、
溢れてきた涙を拭き、下弦の元へ駆け出した。最後に教室をもう一度見回して
みると、机の上の花を生けた花瓶は、六つに増えていた。
暗闇の霧を三人で出ると、心が.しだけ軽くなったような気がした。上弦と
下弦は僕の前に並び、僕の顔を見て微笑んだ。
「…ここでお別れだ。お前は、彼女の待つ世界へ帰るんだ。大変な夢だったけ
れど、お前が俺達を必要としてくれたことに心から感謝している。現実の世界
の俺に宜しくな。きっと現実の俺も、お前に会いたがっていると思うから。そ
れと最後に、俺達は別の意味でお前自身だ、ということを忘れないでくれ。お
前が俺達を心底嫌っていたのは、自分自身に腹が立った時に感じる、隠された
幾つもの自分の性格の一部に、俺達が当て嵌まっていたからだ。それを認めた
くない、或いは再び隠したい、という感情が湧き出て、拒絶するように無意識
に脳が仕向けたことなんだ。人それぞれによって、それが小さな欠片だったり、
大きなものだったりする。だから、自分に素直になれ。そうすれば、お前の心
の氷も.しは溶けるだろうさ」
「僕もそう思う。有りの儘の自分を受け止めて、心を現実へと開いて、明日を
見よう。決して、詩の?地球の眠り?のようにはならないように。あれはフジ