地球の眠り
同学年の男性達に、嫌みを言われたことが多々あった。君は僕をとても気遣っ
てくれたが、僕の心に受けた傷とそれにかかるプレッシャーに耐えきることが
できなくて、授業を休みがちになり、次第に君に会うことを躊躇うようになっ
た。そして、全く悪意の無い君にまで苛立ちを感じるようになっていったのだ
った。
結局、服がずぶ濡れになったので、その日は君から数冊の外国人作家の小説
の文庫末を借りて、別れることにしようという話になった。しかし、僕が君の
ことを心配して、何か声をかけようと思った矢先、君は、「私の家に来ない?」
と予想もしなかった言葉を発した。僕は一瞬思考が止まり、「えっ?」と反射
的に聞き返した。君はもう一度、「私の家に来ない?」と誘ってきた。僕は頭
の中が真っ白になる程視線が定まらずにあたふたしたまま、「…う、うん」と
なんとか答えを返した。
途中コンビニに寄って透明な傘を買って二人で一緒に中に入り、君のマンシ
ョンに着いた。部屋に入るとすぐにお風呂のお湯を沸かしてくれて、僕が先に
シャワーを浴びた。僕の頭の中は相変わらず真っ白で、心臓がドキドキしてい
た。お風呂から上がると、僕の濡れた服は洗濯されていた。
「私の服と一緒じゃ嫌でしょ?」
君はバスタオルで頭を拭きながらそう言った。僕は今更になって体が濡れた
君の姿を見て性欲が湧いて裸の君の妄想が生じたが、すぐにその雑念を振り払
った。
「…い、いや、そんなことなかったけど」
「乾燥させるからそれまでバスローブで我慢してくれる?」
君がお風呂に入っている間、振り払った雑念が再び頭の中を支配していて、
時間の流れが速く感じた。君が別の服に着替えて脱衣場から出てくると、僕の
座っているソファーの隣に座り、櫛とドライヤーで髪をとかしながら乾かした。
高級そうなシャンプーのいい匂いが漂ってきた。その香りは君を更に魅力的
にさせた。自分の髪の匂いはそれに掻き消された。僕は現実とは別の世界にい
るような気がしてならなかった。いつもなら近くにいても遠くに感じる憧れの
君がこんなにも近くにいることが、僕の思考を麻痺させた。ドライヤーから発
せられる熱風に揺れる空気のように、物事が自然に流れるようになればいいと
思った。
ドライヤーをかけている君の横顔は、何か思い悩んでいる様子だった。ドラ
イヤーをかけ終わり、それと櫛を膝に置いて暫く俯いていたかと思うと、突然、
君は僕の肩に頭を載せてきた。
僕の緊張は頂点に達した。君の肩をそっと抱き、頭を撫でると、顔を上げ、
僕に口付けをした。そっと唇を離すと、大きな瞳で僕の顔を見て、大粒の涙を
流した。
僕は無意識の内に、君から離れて、脱衣場の乾燥機を止め、中から半乾きの
衣服を無理矢理取り出し、急いで着て、部屋から飛び出した。外はまだ大降り
だったが、体が濡れきれなくなるまで濡れればいいと思って、家路を走り続け
た。
その直後、君は付き合っていた他の大学の恋人の車に同乗し事故に巻き込ま
れ、この世を去った。僕はショックのあまり、完全に大学へは行けなくなった。
様々な原因が僕をそうさせた。今一度それらのことを思い出すことは今の僕に
もできない。.に打ち拉がれている湖は、僕にそれらのことを回想させた。
「…あの時はいきなりキスなんてして末当にごめんね…」と雨音に掻き消され
そうな女性の声が後ろからした。頭を垂れ、瞼を瞑って暗闇に浸っていた僕は、
雨の滴が目の中に入って痛むのを堪えながら、振り向いた。君が白のワンピー
ス姿に裸足で立っていた。僕は胸に痛みを感じ、そして止め処なく熱い涙が溢
れてきた。それはどしゃ降りの雨に混ざって、胸元まで流れてきた。君も涙を
流しているようで、目が充血していた。君には血が通っていた。生きているの
だ。そして此処は、限りなく現実に近い空想の世界だった。僕達は空想の世界
の何処かの、広大な森の中の湖畔で、再会したのだった。僕には君に伝えたい
ことが山ほどあった。しかし言葉に詰まることなく、それらは凝縮され、一言
だけ呟いた。
「…君にまた会えてとても嬉しいよ、それだけ」
と立ち上がって自分の想いが無意識に現れ出たのか、君の体を抱き締めてい
た。君の顔を見ると、
「私もよ…」
と微笑んで瞳を瞑り、そう言った(.音のせいでそう囁いたようにも聞こえ
た)。雨は暖かく、僕達は暫く見つめ合った後、口付けをした。僕は君を見つ
め、目を閉じると、
「ぜんぜん悪くない。僕は君のことを愛してたんだ」
と言って、暗闇の中で何かを掴んだ。それは、言うまでもなく、君の手だっ
た。
「…私達お互い同じ想いだったのに、通じ合うことができなかったけど、今や
っと今までの願いが叶ったような気がするの。私はもうどこにも行かないし、
ずっと貴方の傍にいたいの」
僕はゆっくりと瞳を開け、「僕も同じ気持ちだよ。…でも、君は、もう現実
の世界には存在しないんだ。矛盾しているかもしれないけど、目の前に映って
いるのは僕の記憶が創り出した幻なんだ。存在しているけど、存在できないん
だ。この物語の中の現実でだけ存在するんだ。現実の僕は一時的な幸福に満た
されるかもしれないけど、その後に押し寄せてくる喪失や悲しみはきっと計り
知れないだろう。そしてまた、このような似た物語を書かざるを得なくなるか
もしれない」
「だから雨が降り止まないのね…」
と君は俯き、涙を溜めて言った。雨は逆戻りして更に冷たくなった。
「泣かないでくれよ…。君の悲しむ姿を見てしまったら、もっと僕の心は凍え
ていくんだ…」と言った矢先に、雨は霙混じりになり、吐く息が白くなってき
た。
「だって…、だって…、私が全て悪いのよ、彼に別れ話をなかなか打ち明けら
れなかったせいで死んでしまって、貴方を苦しませているのだから…。ごめん
なさい…ごめんなさい…」
君はその場に崩れるように倒れた。僕の視界も涙の湖に沈んで、君を見下ろ
しながら呆然と立ち尽くしていた。霙はやがて雪に変わり、森をすぐに白く染
め上げた。振り返ってみると、湖には完全に氷が張り、湖のような僕の心は死
にかけていた。その途端に僕は体が凍えきったせいで気持ちが悪くなり、がた
がた震えながら君を包み込むようにして、膝をついた。ひどい吹雪に変わり、
朦朧とし始めた意識の中で、心はいつまでもただ君を想っていた。
僕は薄暗い夢の中に立っていた。覚醒世界の君や自分のことが気になったが、
すぐに現実で君を失った痛みが地面を走り、僕は叫び声を上げそうになった。
目の前には、末当は僕が心底嫌いだった二人の.年がいた。
「やぁ」と既に死んだ.年は言った。
「やぁ」とまだ生きている.年も言った。
僕は言葉を発することができなかった。
「夢の中で聞いてくれるだけでいいから」と死んだ.年は笑った。「…色々な
ことがあったんだね…。僕達は、フジがそんなに悩み苦しんでいるなんて.し