地球の眠り
の水は全部抜けたが、何故か君は片方の耳の水だけしか抜いてくれなかった。
僕は.し困惑して、胸の奥がざわざわと蠢いていたが、夢は僕に考える余裕す
ら与えず、進行していった。
僕達は二人で並んで座って微かな風で揺れる湖の表面を眺めていた。体中に
悪寒が走った。でも、実際は何てことも無いと分かっていた。心の中で、季節
はいつ? と自問すると、
?春?
とすかさず脳が返答した。君は僕の心の中にいた。でも、隣に座っている君
は何か巨大なもの─それは夢だと恐怖を抱きながら悟った─に、具現化と存在
を許されなかった。しかし、君は確かに、僕の隣に具現化し、存在していた。
それはきっと夢の中だから不条理が罷り通ったのだろう。さっきから、右耳に
入っていた水に対する不快感にずっと堪えていたが、一向に抜けなかった。意
志がどんなにそれを排出させようと努力してもだ。その違和感の中に君と早く
話したいという感情が入り混じり、眼球の渇いた表面の痛みと、心の中にこび
り付いている暗闇がそれぞれ僕の注意を向けさせていた。僕はそんな状態で君
を木の根元に置き去りにしたまま、湖の方へ進んでいった。何故かもう、意識
や意志は脳の映し出す夢に取り込まれていて、僕はこの夢で、?生きる?か?
死ぬ?かという不安に支配されていた。つまり、意識や意志はもう僕から剥奪
されてしまっていたのだ。分厚い雲が森の上空を覆っていた。それは末当は存
在などしていなくてただ単に、幻を脳が、映し出しているだけかもしれなかっ
た。僕は心の片隅に辛うじて残っていた微かな意識や意志で、そんなことはど
うでもいいことだと認識した。僕はいつの間にか、頭の中で、幾つもの見覚え
の無い景色をフラッシュバックをさせていた。何故かそれで僕の気持ちは.し
安定した。
冷たい夜風が僕を君の蛻の殻の姿に振り向かせた。湖面は銀色に輝き、空に
は満天の星空があった。空を覆っていた分厚い雲は、姿を消していた。僕の心
をずっと塞いでいたのはあの雲だったのだ。君は僕が近付いていっても微動た
りとも動かなかった。僕の全神経は君への視線に注がれていた。君の冷たい喉
に触ってみると、突然君は、すっ、と姿を消した。すると世界が、君が姿を消
したからといって、僕を責め立てた。夢の世界に対する怒りは、腹の中でずっ
と蓄積していった。
やがて世界へ鬱憤を晴らす為に、いつの間にか湖の真ん中に立っていた、中
年ぐらいの男性に殴りかかろうとした。僕は不思議と湖の上を渡ることができ
た。彼にぶつかった瞬間、僕は彼の体を突き通って、彼と体が混じり合った。
その不快感は心臓に突き刺さるようなものだった。体と体が重なり合ったまま、
畔の草むらに倒れ、僕の脳裏に?セックス?という言葉が思い浮かんだ。彼か
ら離れたがったが、それには両腕の筋力が必要だった。しかしこの夢の世界に
は僕にそれに相当する筋力は備わっていなかった。夢の世界や自分の欲望の我
が儘に、もう付き合いきれないといった感情が芽生えたのだが、その感情は僕
の心の暗闇によって死滅させられてしまった。僕はそれに対する罪悪感を感じ、
顔を上げると、僕が出会ってきた全ての人々の中で、最も恐怖感を抱いている、
二人の.年が現れた(この夢を見ているある人間は彼らのことを、?主人公?
の最大のトラウマだと理解し、起床した後、慎重に物語を書こうと細心の注意
を払った)のを見た。
彼らの名前は何故か記憶していなかったが(ある人間は彼ら二人の名前を十
分に承知していた。なるほど、彼らが主人公に対する恐怖の根源かと断定した)、
彼らがこの汚れ無き聖域に、存在するというだけで、彼らから逃れたいという
焦燥と、聖域に何故彼らが存在し始めたのかという疑念が心の中に乱れ飛んで
いた(ある人間は、二人の.年と、ゆっくり話をするべきだと主人公に理解さ
せようとした。ある人間と主人公とは、宇宙が?黒点?、つまり我々の世界の
夜空に浮かぶ、白く輝く星と同じような大きさ程遠く離れているのだが、ある
人間は、主人公のことを誰よりも分かっていたのである。たとえ君が毎晩夢に
出てきて、主人公のことをどんなに理解しているつもりでもだ。ある人間はこ
の物語の執筆の依頼をある女性から受けた時、最初はあまり乗り気ではなかっ
たが、次第にこの世界【>宇宙】の彼女の夢に存在している、主人公のことを
物語として書き記しておきたくなった。まるでそれが、彼の生まれてきた使命
のように。しかし、彼女の夢の物語は、他の生命体が見る夢と同じように、自
在に変化させることができないので、物語として成立するか今のところ分から
なかった。ところで、話は変わるが、このある人間を含めた物語は、誰が書い
ているのだろう? それは勿論、この物語を文芸界新人賞に出すつもりでいる、
十五歳から小説家を目指している【藤川周】である)。
恐怖の根源である、顔の無い嫌悪感だけを感じる今は亡き.年の一人に、僕
はなんとか仰向けになりながら、語りかけた。いつの間にか、右耳の水は抜け
ていた。
「僕は君達を好かない。絶対に」
「どうして僕達のことをフジは嫌うんだい? 僕達はフジの幼馴染みじゃない
か?」その問いに僕は答えなかった。
「僕達がフジにしつこく嫌がらせをしたのは深く反省している。死んだ後もね。
此奴は死んでいないけど、時々フジに嫌がらせをしていたことを思い出しては
後悔しているんだ。だからずっとこの世界に、この聖域に留まっていてもいい
かい? 僕達はフジと末当は仲良くなりたかっただけなんだよ。昔も今も。だ
から…」
「僕は君達が心底嫌いなんだよ」僕は死んだ顔の無い.年の言葉を遮った。「一
体いつまで…僕の夢の中まで追いかけて来るつもりなんだい? 現実では君達
にお前が嫌いだと言えなかったけど、今の僕なら言える。もう一度言う。僕は、
君達が心底嫌いなんだよ」
しかしそう言っても彼らにはまるで通じなかった。まだ命のある.年は僕の
心の裏側まで嫌悪感を浸透させてきた。胸の奥底に蓄積している怒りが爆発し
た時に、彼の顔を殴ってやろうと思ったが、何故か両腕が持ち上がる気配は無
く、僕は二末足だけで生きているような心地がした。
「…藤川が俺達をこの夢の世界へ呼び出したのは、藤川がこの夢に俺達が必要
不可欠だと無意識の内に感じたからだろう? 俺達のことを忘れたくないから
だろう? 夢ってそういうものなんだよ」命のある.年は昔のように気障っぽ
く言った。
「君達を嫌っている僕が、何故君達のことを忘れたくないんだい? 君達のこ
となんかさっさと忘れてしまいたいぐらいなのに。生死を彷徨っている僕の夢
の中に、いい加減土足で入り込むのは止めてくれないか? 僕はこの夢の中で、
永遠を見つける為にじっくり夢が創り出す物語を諦観するつもりなんだから。
君達との思い出は何一つろくなものが無い」
二人は黙り込んでしまった。僕は、彼らに君達のことが心底嫌いなんだよと
言えたことに心がすっきりしたような気がした(特に顔の無い死んだ.年に対