地球の眠り
「周、周…」
僕は瞼を開けた。頭の下に君の膝が敷かれていて、君は涙を流していた。僕
が倒れている地面には、無数のタンポポが咲き乱れ、綿毛が時折吹く生暖かい
風に乗って空中に舞い上がっていた。木の枝に止まっていた多彩な色の小鳥が
囀り、沢山の玉虫色の蝶々が空中を上下しながら飛んでいた。空は突き抜ける
ような青さで、春の陽気を醸し出す太陽が、地上を暖かく照らしていた。
「周、気が付いたのね…。よかった…」君は嬉しそうに涙を流し、僕の頭を胸
元に寄せて優しく抱き締めた。
「どの位眠っていたのかな…」僕は一度暫く目を瞑って微かに微笑みながら、
そう言った。頭を横に向けると、凍っていたはずの湖は風に水面を撫でられる
と波紋を広げていった。
「もうずっと意識が戻らないと思ってた…貴方が私を庇って意識を失ってしま
ったから…でも、雪に埋もれてしまう!! と心の中で叫んだら、ある時突然
雲が晴れて、夜が明けて太陽が昇ってきて雪が溶け出し始めたの。そうしたら
不思議と心も暖まって、周りにこんなにタンポポが咲いて、周の名を呼んでた
ら周が目を覚ましたのよ」
君は真顔で心配してくれていた。僕は、ゆっくりと体を起こして、君と面と
向き合い、暫く間を置いた後、口付けをした。君は目を瞑って涙を流し、僕は
君の美しさに心を潤した。長い口付けが終わると、僕達はそっと唇を離し、じ
っと見つめ合っていると、互いに笑みが顔に浮かんできて、声を出して笑った。
性交をし終わると、君は大事そうに子宮の辺りを触って、「周に新しい.来
が生まれようとしている。それはこの世界で一番大きな樹となるわ。私が朽ち
果ててもこの未来は周にとって輝かしい永遠のものとなるのよ。だから安心し
て」と言った。僕は君の子宮の辺りに耳を当てて、未来の鼓動を聴いた。
「もう一人の僕が言っていたんだ、君のことを僕の想いとは別に想っていたっ
て。二人の僕は僕の悲しみを消す為に身代わりになったんだ。また僕の未来で、
生まれ変わった彼らと会えるだろうか?」
「もう.来に命が芽生えてる」君は微笑んで言った。「周の記憶に残っている
人達みんなの分の命が。…私ともきっとまた会えるわ。これからの長い人生の
中で、必ず、『私』という人間に。たとえ命を失ったとしても、地球の眠りよ
りももっと長い時間だとしても、私はずっと待ってるから」
僕はもう一度.来の鼓動を聴いた。それは時を刻む振り子時計のように聞こ
え、僕の命と君の体に宿っている命を対比させて不足分を小さい方に補充させ、
均等にさせた。つまり、樹の生命力が悲しみの喪失によって空っぽになってい
た僕の心を蘇らせた。僕の中で未来の白く輝く世界が映され、其処を自分のも
のにする為には、もうこの物語を終わらせなければならなかった。
僕は立ち上がり、瑞々しい命の匂いを運ぶ風に吹かれて、『未来』を見つめ
た。
「もう僕は行かないといけない」
君は微笑み、
「…その言葉をずっと待っていたの。周が心の闇を乗り越えて、現実へ目をそ
らさずに一人で歩いていける自信と決心をつけて、この世界を旅立つ時の言葉
を」と言ってこの上ない軟らかな表情をした。
「この物語を終わらせて、僕は自分の夢へ向かって進み出すよ。きっとこの物
語を生み出したのは、全ては.来を全うに生きる為だったんだ。そして、僕に
とって物語を書くことが一番の幸せだと分かった。同時にこれからの人生の上
で、幾多に渡って生まれてくるだろう心の闇も、そのことで払い除けることが
できるってね。だから僕はもうこんな物語は書かないよ。これからはもっと希
望に満ち溢れた、読み手の明日を生きる活力になるような物語を創っていくよ。
君のことを書きたいと思うようになっても、そのエネルギーは、君との思い出
をいつまでも鮮明に忘れないようにする為に使うよ。決して.練がましく思い
出すってわけじゃないんだ。僕の心のアルバムの中の、最初の一ページに、大
切に飾っておいて、いつまでも人を愛することの大切さや幸せの温もりを物語
を通して伝えていきたいんだ。君が一番願っていることを僕は生涯をかけて全
うしたい。それはこの物語に出てきたみんなが教えてくれたことなんだ」
「有り難う…。そうね、周が乗り越えなければならなかったこと全てが、私が
周に伝えたかったことだったの。そして、私が周を愛していたことを悟らせた
かったの」
僕の心の最後のつかえが取れて、心の中で溶けていったような気がした。
「僕を愛してくれていたって、末当に信じていいのかい? 末当の君は、僕を
愛していたのかい?」
「えぇ…、愛してたわ…。いいえ、今も、きっと愛していると思う…。.来か
ら周を祝福してね…。もし新たな困難が立ちはだかっても、決して心を閉ざさ
ないでね…」
「大丈夫。もうそんなことにはならないから。現実から逃げ出さずに、『.来』
を切実に受け止めるよ」
「よかった…末当に逞しくなったわね…とても嬉しい…」
すると突然君の体はゆっくりと透け始め、にっこりと微笑んだ。
「さようなら。周…。ようやく安心して眠れるわ…。私を思い出のアルバムの
一枚目に必ず飾っておいてね…『.来』と共に、新しい歴史を創っていって…
そして幸せになって…」君は涙を流し、僕の胸に抱き付いた。
「…決して忘れないよ…」僕も溢れんばかりの涙を流して力強く抱き締めた。
すると君の体は太陽のように白い光を放ち、眩しさの為に目を覆って暫くして
から開けると、君の姿は無く、足元に幼木が立っていた。これが僕の『.来』
か、と思い、湖から水を掬って、そっと幼木にかけた。幼木の葉は心地良い風
に揺れて、新しい森の匂いを放っていた──
僕は物語を書き終えると、ドキュメントを閉じ、パソコンの電源を切った。
キーボードの上に落ちた涙の滴は、カーテンの隙間から射す朝日の光を浴び、
光り輝いた。僕は部屋のカーテンを開け、電線の上で朝を告げる雀達を見た。
新しい朝が始まろうとしている。僕は物語の描写を思い出し、再び胸が熱くな
るのを感じた。ふいに眠気が差して、僕はベッドに横になって深い眠りに就い
た。
目が覚めると、僕は「地球の眠り」を推敲し始め、数日後完成させた。そし
て締切が間近になると、「地球の眠り」をプリントアウトし、郵便局へ出しに
行った。君への想いと、『.来』へのメッセージが文芸界新人賞の審査委員の
方々の心に伝わればいいなと思っていた。─物語は世界を変えられる─、そう
僕は信じていた。
数ヶ月後、「地球の眠り」は文芸界新人賞に選ばれた。多くの人に読んでも
らえるという、僕の願いが叶ったのだ。そして念願だった、純文学の名誉ある
大きな賞を受賞し、出版化され、TVのドキュメンタリー番組の取材として、
君の墓を訪れた。
「此処が、君のお墓ですか」ディレクターは、君の名前を、TVに出さない、
という僕の条件を快く承諾してくれて、君の眠っている墓地の場所を、君の家